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学ばない人、学ぶ人

インターネット上に出回っている風刺画です。便宜上、上から、作品1、作品2、作品3とします。

Photo

Photo_2 

Photo_3 


著作権の問題もあるだろうと思い、作者が誰なのか調べたくて検索したのですが不明でした。
(インターネットに風刺画をばらまく人は、著作権がどうこうなんて言わないのでしょう。)

もともと作品1が出回り、これを誰かが加工して作品2となり、さらに付加されて作品3となっていったようです。他の作品もあります。


作品1:学ばない人は先が見えないが、学ぶ人は向こう側が見えている、ということのようです。読書の効用とも取れます。

作品2:学ばない人は偽りの風景を見ているが、学ぶ人は現実の風景を見ている、ということのようです。
「権力の側は国民に偽りの風景を見せている、大企業も消費者に偽りの風景を見せている、我々はしっかり学んで偽りの風景にだまされないようにしよう」という政治性・社会性のあるメッセージかもしれません。

作品3:学ばない人は偽りの風景を見ている、学ぶ人は世界の悲惨な現実を見ている、もっと学ぶ人は現実の上に希望があると悟る、ということでしょうか。これと似た絵が幾通りかありました。
でも、見ようによっては、机上の学問にばかり頼ると浮世離れしてしまう、とも取れます。
上に載せた作品3では一番上の人は空を見ていますが、雲の上にいたり宇宙を見ていたりする作品もありました。

「読書 風刺画」などで検索するといろいろ出てきます。

(一滴)

イエスの誕生

今日はクリスマスの話です。

聖書の記述がどこまで歴史的事実を反映しているのかはひとまず置いて、まず、福音書が描くイエスの誕生の場面を見てみます。前に書いた話との重複もありますが、ご了承ください。

福音書は、ベツレヘムでのイエスの誕生を描きます。
ルカは、ヨセフが「人口調査」のため身重のマリアを連れてベツレヘムに来た場面を描きます。ベツレヘムではマリアとヨセフはよそ者です。マリアは臨月なのに泊まる宿もなく、家畜小屋に身を寄せ、そこでイエスが生まれたようです。でも、はっきり家畜小屋とは書かれていません。古い絵画で、家畜小屋に使われていた洞窟が描かれることもあるのですが、もしかすると、宿の、家畜をつなぐための土間であったのかもしれません。
一世紀のパレスチナです。旅人は家畜で荷物を運んだり、家畜に乗って移動したりしたのでしょう。宿の土間には家畜をつなぐスペースがあったと考えるのが自然です。部屋は満員だけれど土間でもよければと言われ、野宿するよりはまだいいと、家畜と一緒に土間に泊まった、そんな場面を想像します。


福音書には、生まれたばかりのイエスが布に包まれ、かいばおけ(うまぶね、まぶねとも言う、家畜のエサ箱)に寝かせられた話が出てくるだけで、そこがどんな建物だったのか、何も書かれていません。
ルカは、マリアの出産についても具体的には描きません。でも、状況を考えれば、不衛生な場所での危険な出産が想像されます。

家畜小屋にしても、家畜をつないだ土間にしても、今の人にはなじみが薄いかもしれませんが、私が子どもの頃は、まだ近所にありました。そこはわらの匂いに混じって家畜の息や糞尿の臭いが漂う場でした。

かいばおけ(家畜のエサ箱)がベビーベッドの代用品!

私が子どもの頃、家畜小屋にはドラム缶を切って作ったエサ箱が置いてありました。家畜のよだれでべとべとになっていたりして、ちっともロマンチックなものではありません。イエスの時代のかいばおけは、木とか石とか、その時代に手に入りやすい素材でできていたのでしょう。そこにわらや干し草などを入れ、家畜に食べさせていたのでしょう。

衛生的ではないけれど、地べたに寝かせるよりはと、かいばおけに寝かせられた新生児イエス。それがイエスのベビーベッドで、中のわらや干し草が敷布団のかわりだったということなのでしょう。

一般庶民よりずっと惨めな中で生まれたイエス。それが、ルカが描くイエスの誕生の場面です。よく、西洋の絵画で、降誕の場面が美しく描かれますが、ちっとも美しくありません。不衛生な場所の、悪臭の中です。

しかも、マタイによれば、幼いイエスは命を狙われ、ヨセフは、マリアとイエスを連れてエジプトに逃れた、というのです。

もう25年以上前ですが、私は、聖地の旅に参加して、イスラエルからシナイ半島を越えてエジプトに行くバスに乗ったことがあります。シナイ半島は延々と沙漠が続きます。バスでさえ長い旅で、途中で私は気分が悪くなりました。

幼い子を連れた一家が、徒歩でシナイ半島を越えてエジプトまで行くのは、まず不可能でしょう。
ラクダを調達し、相当の食糧と飲料水を積み、衣類や夜具を積み、簡易テントも積んでいったとしても、それでも一家族では無理かもしれません。隊商にでも同行したのでしょうか? 命がけの旅です。

命がけの難民の家族です。

イエスは父親のはっきりしない子として、しかもよそ者として、不衛生な場所の悪臭の中に生まれ、一家は難民になって命がけで国外に逃れた、という話です。マリアもヨセフも、ただ神に従っただけなのに。

聖書は、神話的な世界観の中に生きていた古代人の文書ですが、その中に、現代に通じる大切な証があるのです。

イエスは言います、『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』 (マタイ25:40より 新改訳初版)
また、イエスは、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という旧約の言葉を引用して教えを説きます。(マルコ12:31より 新改訳初版)

いと小さき者とは誰でしょう。隣人とは誰でしょう。

現代の私たちに求められるのは、聖書の文字で人を裁くことではなく、文字の中に込められた大切なメッセージを読み取ることでしょう。

クリスマスが来ます。
祈りましょう。
いと高き所には神に栄光が、地には平和が、主の悦び給う人々にありますように。

(伊藤一滴)

レイチェル・ヘルド・エヴァンズ氏の問いが、十代の私と重なる

レイチェル・ヘルド・エヴァンズ著『解き明かされた信仰:すべての解答を知っていた少女が質問をすることを学んだ方法』を読んでます。
(Faith Unraveled: How a Girl Who Knew All the Answers Learned to Ask Questions (English Edition)  Rachel Held Evans 2014 )

きわめて保守的なプロテスタントの環境で育ち、原理主義的な「信仰」に何の疑問も持たなかった一人の少女(著者)がいました。小さいときから模範的な原理主義者の思考と答え方を覚え、うまく答える子でした。まさに、「すべての解答を知っていた少女」でした(a Girl Who Knew All the Answers)。やがて成長する中で、彼女は歴史を学び、世界の現実を学び、自分の「信仰」とのずれを感じるようになりました。そして・・・・。
彼女の思いがあふれるようにほとばしると、1つの文がとても長くなって、なかなかピリオドに行きつきません。

日本語訳がないので原著(英文)で読んでます。
私は英語が母語じゃないんだから・・・・、激しくほとばしる文章を追うのが大変です。

やっと、半分くらいまで読みました。
私の語学力では大変なのですが、興味深い内容なので、どんどん引き込まれます。

興味のある方は、日本のアマゾンでも買えますから、英語の原題で検索してみてください。(日本語の題名や副題は私の勝手な訳なんで、検索するときは英語で。)


エヴァンズ氏は問います。

学生のとき、エヴァンズ氏は学友とテレビで恐ろしい映像を見たのです。タリバーン支配下のアフガニスタンで、公開処刑された女性の映像でした。タリバーンは見せしめのために公開処刑をおこなっていました。この女性は十代で結婚させられ、夫から暴力を受けていたようです。夫を殺した罪で公開処刑になったのです。さすがに処刑の瞬間はカットされていましたが、そのあと遺体が映し出され、その足はテニスシューズ(のような靴)をはいていました。彼女はイスラム教徒でした。だから天国には行けず、地獄に行くのでしょうか。たまたまイスラム教徒の家に生まれ、キリスト教に出会うチャンスなどまったくなかったのに。そのことに、本人には何の落ち度もないはずなのに。地上で処刑され、死んでからも地獄で永遠に苦しむのでしょうか。神は、そのようなことをお許しになるのでしょうか。

処刑された女性のことがエヴァンズ氏の頭から離れません。テニスシューズの彼女のことが・・・・。

エヴァンズ氏は、自分がキリスト教徒なのは、たまたま「宇宙宝くじ」に当たったようなものだ、と言います。
「宇宙宝くじ」
それに偶然当たった人だけが天国に行けて、あとの人はみんな地獄?


私は中高生の頃、極端なキリスト教原理主義者(カルトに近い人たち)の「教会」で話を聞いていました。
そういう人たちの集まりだと知らずに、キリスト教の教会だと思って行っていたのです。
この「教会」はおかしい、普通じゃないと、すぐには気づきませんでした。だって、建物は普通のキリスト教会そっくりだし、看板に「〇〇〇キリスト教会」って書いてあるし、しかも、教会に行ったのはそこが初めてで、ほかと比較のしようもありませんでした。

詐欺師が見るからに詐欺師のような姿で近寄って来ないように、多くの場合、カルトは見るからにカルトっぽくはありません。

何度か行って話を聞くうち、神の審きや救いについて考えるようになりました。入信したのではありませんが、もし神様がおられ、この「教会」の「牧師先生」や「信者さん」の言うことが正しいなら、と想像してみました。私は十代で、未熟でした。「もしかしたら正しいのかもしれない」という思いが心のどこかにあったのでしょう。

その「教会」の話だと、こうなります。

人はみなアダムとエバの子孫であるから原罪を持つ罪びとであり、地獄で永遠に焼かれることになる。ただし、イエス・キリストは十字架の死によって罪を贖ってくださったのだから、イエスを信じる人だけは救われて天国に行ける。それ以外の人はみな地獄に行く。

この話が本当なら、と、十代の私は思いました。ほとんどの人は地獄で永遠に焼かれる。
うちの父も母も地獄。近所のやさしいおばあちゃんも地獄。学校の同級生も先生も地獄。〇〇ちゃんはお寺の子だから当然地獄。今、この「教会」に来る途中すれ違った人たちも、キリスト教と関係ないからみんな地獄。
「信仰」の道に進まなければ自分自身も地獄。

想像すると、恐ろしくなりました。
原理主義者やカルトが心に抱く恐怖がよくわかります。

当時の私の疑問は、エヴァンズ氏の疑問と重なります。
本当に、エヴァンズ氏が書いていることと、私が思っていたこととが重なるのです。


ピサロがラテンアメリカを征服したとき、多くの先住民が殺されています。キリスト教に出会うことなく殺された先住民はみな地獄行きになったのでしょうか。(ピサロの軍はキリスト教徒だから天国に行くのかって思いましたよ、エヴァンズ氏はそこまで書いてませんが。)

人類の歴史の中で、何度も大虐殺がありました。虐殺された人たちはキリスト教徒以外はみな永遠の地獄行きなのでしょうか。

『アンネの日記』を読んで思いました。アンネはユダヤ教徒だから、天国には行けず、地獄行きになったのでしょうか。ナチスに殺されたユダヤ人はみんな地獄行き?(ナチスの将兵の多くはキリスト教徒だから天国に行くのかって思いましたよ、それもエヴァンズ氏は書いてませんが。)

上記のような犠牲者たちはキリスト教の考えでは決して救われず、みな地獄行きなのかと、十代の私は想像していました。

以下はエヴァンズ氏の本にはありませんが、十代の私はさらに次のようなことも考えていました。

アメリカに連行された黒人奴隷はアメリカでキリスト教に出会って「救われ」た。奴隷狩りにあわずにそのままアフリカにいた黒人はキリスト教に出会うことがなく地獄行きになった。だから、奴隷にされた人のほうがよかった、ということなのか。

中学校の図書室で「はだしのゲン」という漫画を読んだ。原爆投下でずいぶんひどい殺され方をした人が大勢いて衝撃的だった。後遺症に苦しみながら放射能障害で死んでいった人たちもたくさんいた。あの人たちのほとんどはクリスチャンではないから地獄に行き? 原爆で焼かれたり放射能を浴びたりして殺されて、そのあと永遠の地獄で永遠に焼かれる?

もっともっと、考えていました。

旧日本軍から殺害された中国人や東南アジア諸国民も多くは地獄行き?
早乙女勝元『東京大空襲』に出てくるような空襲犠牲者たちも地獄行き?
旧満洲で殺害された人たちや敗戦後の逃避行の中で死んでいった人たちは幼い子も含めて地獄行き?
スターリン支配下のソビエトで、まったくの冤罪なのに反革命分子とされて処刑された人たちも地獄行き?
旧南ベトナム政府軍から殺害されたベトコン兵士や北の協力者も、共産主義者やそのシンパだから地獄行き? ずいぶんひどい拷問もあったようだけれど、拷問した側はキリスト教徒だから天国行き?

いろいろ読んだり調べたりすると、数々の虐殺や無辜の死が出てきます。

人はすべて原罪を持つ身なのだから、本当の無垢ではない?
純粋な無辜ではない?
どんないい人も、みんな原罪を持つ罪びと?

でも、それが永遠の地獄で永遠に焼かれるほどの大罪?

ガンジーも宮沢賢治もキリスト教徒でないから地獄行き?
生まれたばかりの子も、精神薄弱者(当時の表現)も、信仰がないから地獄行き?

??????

そんなふうに神は、キリスト教の信者か非信者か、白黒はっきり分けるんだろうか。碁石を白と黒に分けるみたいに分けるんだろうか。間に灰色はないのか。少しでも灰色がかった所があれば黒と見なされるのか。
ほんの少しの差で天国に行けた人は永遠の至福で、ごくわずかな差で行けなかった人は永遠に焼かれるのか。

それで、「神は愛です」って?

??????

『解き明かされた信仰』を読みながら、私は、十代の自分を思い出しています。

(伊藤一滴)

悪くなった翻訳 『聖書 新改訳2017』

新改訳聖書の全面改訂版といえる『聖書 新改訳2017』は原典に忠実だと言われており、刊行元もそう言いますが、はたして、本当にそうでしょうか?

全体を細かく読んだわけではありません。それにはかなりの時間がかかってしまいます。
また、私には旧約ヘブライ語の知識がないので、旧約に関しては、原典と対比させてどうこう言う能力はありません。


新改訳2017の「新約聖書」を読みながら、これが本当に原典に忠実なのかと思いました。

『聖書 新改訳(初版)』と『聖書 新改訳2017』の両方から引用します。


新改訳初版「ペテロの手紙第一」
「3:19その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。」
「4:6というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、~」

比べてみると、

新改訳2017「ペテロの手紙第一」
「3:19その霊において、キリストは捕われている霊たちのところに行って宣言されました。」
「4:6このさばきがあるために、死んだ人々にも生前、福音が宣べ伝えられていたのです。~」

3:19はより直訳に近づいたとも言えますが、イエス・キリストは陰府(よみ)に行って死者の霊に福音を伝えたという説を否定しようとする意図を感じます。
4:6はもっと露骨で、わざわざ原文にない「生前」という語を訳に挿入し、生きているときに福音を聞かなかった者に死後に福音が伝えられることはないと思うよう、読者を誘導する翻訳にしています。

原典を忠実に訳すのではなく、東方教会や無教会その他の「死者への福音伝道」説を否定するように訳文を曲げていると感じます。
東方教会の先人には、もちろん新約ギリシア語の達人がいたのでしょうし、バークレーも、黒崎幸吉も、前田護郎も、新約ギリシア語の達人で、博識の人でした。「死者への福音伝道」説の是非について私はコメントしませんが(※)、読みようによっては、ギリシア語の原文から「死者への福音伝道」の可能性を導くことも出来るのです。ギリシア語を知らなくても新改訳初版を読めば、「死者への福音伝道」もあるのかもしれないと考えることが出来ます。

それが、新改訳2017だけを読んでも、出来なくなりました。

つまり、新改訳2017はある種の意図をもって訳されており、ギリシア語の原文(ネストレ・アーラント校訂28版)をそのまま素直に訳していないのです。意図的に、本文にない語を加えてまで、特定の解釈へ誘導する訳なのです。それは聖書の改変であって、学問的な研究によって一部ネストレ・アーラントと異なる写本の読みを採用するというのとはわけが違います。(※※)

まず解釈が先にあり、解釈に合うように翻訳しているのです。

新改訳初版にも解釈に合うように訳された箇所もあったのかもしれませんが、これほど露骨ではありませんでした。
初版の翻訳者は、意味がよく解らない箇所も、基本的には書いてあるとおり訳していたのです。だから、使える訳でしたし、私は今も使っています。

「自分たちの解釈を翻訳に反映させる」より、「意味がよく解らなくてもそのまま訳す」べきです。

もう新改訳の旧版が増刷されることはないでしょう。日本の福音派に広く使われる聖書がある種の意図を持つ「訳」に変えられてしまい、残念です。日本聖書協会は戦前の文語訳聖書や戦後すぐの口語訳聖書(一部変更がありますが)を今も出していますが、新日本聖書刊行会さんが新改訳の旧版を増刷したりはしないでしょうね。

経典の翻訳で、解釈に合うよう本文をいじるのは、やってはいけないことなのに。経典に限らず、まず、正確なデータを提供した上で、自分たちはそれをこう解釈すると説明するのが筋でしょう。新改訳は基本的に引照・注付なんだから、まず原文を忠実に訳した上で、欄外に翻訳者の見解を書けばいいだけの話なのに。

科学の実験や観察記録で、自分たちの見解に合うようにデータを変えてしまったらどうなりますか。たとえ不都合なデータがあっても、それを正直に示した上で見解を書くのが筋です。
正しいと信じる経典も同じこと。自分たちの解釈が先にあって、その解釈に合うように経典を書き換えるなんて、決してしてはいけないことなのです。

「誤解されることのないよう訳すべきだ」と言う人もいるでしょう。しかし、何が「誤解」なのか、簡単に断定はできません。読みようによっていろいろ解釈できる箇所は、そのとおり訳しておくべきです。

「たとえ一部に悪くなった箇所があっても、全体的には良い訳になっている」と言う人もいるでしょう。しかし、一部でもある種の意図をありありと感じるということは、これは最初から特定の解釈に導きたい意図をもって訳された翻訳ではないかと疑われます。私はそのような翻訳の姿勢に問題を感じるのです。それに、よしあしはパーセンテージでは決められません。もし99%の清い水に1%の猛毒が混じっていたらどうでしょう。それは飲用に適するのでしょうか。

聖書学・キリスト教学の世界でまったく相手にされていないカルトじみた人たちの「訳」じゃあるまいし、一定の影響力がある新改訳がこんなことをするなんて・・・・。

日本の福音派の翻訳の水準が落ちてしまった、ということなのでしょうか。そしてそれは、福音派の教師たちの思考の硬直化が進んだということなのでしょうか。

あきれた!

私は、『聖書 新改訳2017』は、今後の聖書の学びには一切使わないことにします。

(伊藤一滴)


※神話的な世界観の中で生きていた古代人の表現を引っ張ってきて「人は死んだらこうなります」なんて言えませんから。

※※英語に「訳」されたものに改変がもっとひどいのもありますけどね。また、改変された「訳」を見ながら「訳」したと思われる日本語版もありますね。
人がある種のイデオロギーに囚われると聖書を改変してこんな「訳」になってしまうという参考にはなります。聖書の訳としては使えません。

なお、私が今回書いたようなことが大問題になっているのかと思ったら、ネットを見ても探せませんでした。

エペソ4:9の訳を問題視している方がおられましたが・・・・、
旧訳の「地の低い所」(エペソ4:9)は、「地上より低い所」(陰府)とも、「(天に比べて)より低い所である地上」とも、どちらの意味にも取れます。口語訳聖書は前者、新共同訳聖書は後者の意味に訳しています。
この箇所について『聖書 新改訳2017』の訳は誤訳とは言えません。

実行しない「信仰」の人たちと、実行する人たちと

福音派・聖霊派を自称する原理主義者やカルト(「教派ではない」と自称する人たちも含めて)に感じるのは、自己保身的な「信仰」です。

地獄に行きたくないから、だからイエス様を信じます、みたいな。
地獄の不安を解消する手段に、イエス・キリストの十字架を使っているのです。
どこまでも自分が中心であって、イエス・キリストは自分が地獄を免れるのに利用する手段です。
それってエゴイズムの一種ですよ。

えっ、違う?
違いません。

福音書に記されたイエスのメッセージに従うなら、今、この状況で、こうすべきだというときに、するりと逃げる。巧みです。

「聖書に書いてあることを文字通りに信じています」なんて言いながら、イエスが命じることを実行しない。なぜ実行しないのか問うと、「人は信仰によって義とされるのであって、行ないによるのではありません」って。
冗談じゃありません。イエスが命じていることからするりと逃げて実行しない信仰って何ですか。

信仰義認での、人を義としない「行ない」というのは、聖書を文字通り受け取ろうとしてどこまでも文字にとらわれ、そうやって、心がないがしろにされてゆくような行為ではないのですか。たとえば躍起になって進化論を否定するような、そういう行為。自分たちなりの「聖書の真理」で人を断罪して責めまくるような行為。そのような行為で人が救われるのではないと私は受け取りましたけど。

目を覚ましてほしいと思います。
早く目を覚ませば、それだけ残りの人生を有意義に使えるのに・・・・。もったいない。


ボランティアの学生さんたちが可愛らしい手作り品を作っていました。売上金をペシャワール会に寄付すると聞いて、私も買いました。
学生さんたちは実行していました。
神様のみこころにかなうであろうことを実行していました。
キリスト教の信仰を持つ、持たないにかかわらず。

中村哲先生は、「神は共におられる」と信じ、徹底した実行者になりました。
そして、召されていきました。

さまざまな人が住むこの世界が、少しずつでも、平和に向かっていってほしい。庶民の暮らしが、少しずつでも、よくなっていってほしい。そういう願いが、一瞬の暴力で踏みにじられたのがくやしくて、やるせない思いです。

中村先生と同乗者らは、なぜ銃撃されて、殺されてしまったのでしょう。
なぜ全能の神がそんなことをお許しになるのでしょうか。

全能の神の全能とは、政治的、軍事的、あるいは超自然的な全能ではないのでしょう。神は、政治、軍事、病気や事故や自然災害その他ひとつひとつ全部に直接介入したりなさらない。だから、現世の御利益を求めても、御利益はありません。神は、そのいつくしみにおいて全能であり、完全ないつくしみで人に関わり、人の心に働きかけ、人を動かしてくださる、そういう意味で全能なのでしょう。

私たちは、その働きかけに応えるのかどうか、応えるならば、どのように応えるのか、それが問われているのだと思います。

神に栄光が、地に平和がありますように。

(伊藤一滴)

中村哲氏の死

昨日(2019.12.4)の午後6時、運転中の私は、カーラジオのニュースで中村哲氏が襲撃されて死亡したと知りました。

井戸を掘る医者として知られた中村哲氏のアフガニスタンでの活動も、ペシャワール会のことも、ネットで検索すればたくさん出てきますので、ここには繰り返しません。

お会いしたことはありませんが、氏のお人柄はよく耳にしていました。誠実なクリスチャンだと聞いていました。

私がたまに寄るある団体の方々が、ささやかな手作りの品を作り、その売上金をペシャワール会に寄付していました。私はそこに寄るたびに手作り品を購入していました。わずかでもペシャワール会の資金になってくれたらいいと思いながら。ほんの少しでも、協力したかったのです。

それが・・・・。
あの中村先生が、銃撃されて殺されるなんて・・・・。

くやしくて、くやしくて、なりません。

犯人が憎いというのではありません。
私は、誰も憎みたくありません。
憎しみから良いものは生じませんから。

憎いのではなく、くやしいのです。
築き上げてゆくのは大変なのに、破壊するのは一瞬です。

くやしくて、くやしくて、なりません。

(伊藤一滴)

黄泉の霊への「福音伝道」と、存在しない「神」

前にも書きましたが、私が学生の頃、「福音派」とか「正統プロテスタント」とか「教派ではありません」とか自称するキリスト教原理主義者や聖書カルトたちが学内にいて、さかんに「伝道」していました。「何々派と言うのは分派した団体であって、私たちは派ではありません。聖書に書いてあることをすべて文字どおり正しく信じていますから、教派ではなく純粋なキリスト教です」などと称するグループまでいて、特にこの「教派ではなく純粋なキリスト教」派が強力でした。
それは、地獄の恐ろしさをことさら強調し、信じなければ永遠の地獄の火で永遠に焼かれるのだと恐怖心を煽って人を引っ張り込むような、恫喝的な「伝道」をする人たちでした。イエスの教えよりも神の愛よりも、地獄の恐怖で頭が一杯なようでした。

真面目な学生が何らかのきっかけでマインドコントロールされてしまったのかもしれません。
たとえて言うなら吸血鬼にやられた人が自分も吸血鬼になって吸血鬼を増やしてゆくように、カルト教会の被害者がカルト信者になって被害者を増やしているように見えました。説得を試みたのですが「あなたはキリスト教というものがまるで分かっていませんね」とか、「あなたには信仰がないからそんなことが言えるのです」とか、「あなたは救いの中にいないようです」とか言われて叱られただけでした。どうも、専門的なノウハウを持つ人でないと説得は難しいようです。1980年代の半ば、私は二十歳の学生でした。当時は今のような大学のカルト対策や相談窓口もなく、どうすることもできませんでした。

ちゃんとした教会の牧師さんに相談したこともありますが、こんなふうに言われました。
「たしかに、福音派の中にはかなり極端なことを言う人もいますね。地球が出来たのは紀元前4004年でそれ以前の歴史はないとか、天地創造の事実をごまかすためにサタンが化石を造ったのかもしれないとか。そういうことを本気で言っている人たちと正面から議論しても仕方がないんです。私は、『ああ、そうですか』とかわして、本気で議論しないことにしています。労力の無駄ですし、他教派の悪口を言っているなんて言われたくないですしね」

そう言われても、特に「教派ではなく純粋なキリスト教」派がやたら議論を吹っかけてくるんで、私は受けて立ちました。
でも、フェアじゃないですね。あっちは何人もで私を囲んで、自分たちの主張をまくしたてるんですから。


彼ら:あなたは誤解しているようですが、救われるのは正しい聖書信仰に立つ本当のクリスチャンだけです。
カトリック教会は聖書にないことを教えているので正しいキリスト教ではありません。日本基督教団などのリベラルな教派も、聖書を文字通り信じていないので、正しいキリスト教ではありません。
救いの中にあると言えるのは聖書に書いてあることをすべて文字どおり正しく信じる本当のクリスチャンだけです。

私:あなた方のような特に保守的なキリスト教はごく少数です。世界的にはカトリックが多いし、現代のプロテスタントも主流派はリベラルです。

彼ら:正しさは数の問題ではありません。数が多くとも、間違った聖書理解では救われません。
サタンは巧妙に人を惑わします。キリスト教会やキリスト教の団体、キリスト教系の学校にまでサタンのパン種が入り込んでいます。サタンの影響下にある間違った聖書理解に惑わされてはいけません。
聖書をすべて文字どおりに信じ、正しい聖書信仰に立つべきです。

私:文字通りに信じると言うなら、あなた方は聖書のこの箇所をどう読むのですか。(鞄から「口語訳聖書」を取り出して)
「 3:19こうして、彼(キリスト)は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた。 」(ペテロの第一の手紙 口語訳)
死後に捕われている霊にさえ福音が宣べ伝えられるのに、まじめに生きた異教徒には救いのチャンスがないと言うのですか。

彼ら:それは万人救済論を主張する間違った信仰の人たちがよく引用する箇所ですね。浅い聖書の読み方で誤って解釈される代表のような箇所です。
よく読んでください。「捕われている霊たち」とありますが、どこにも黄泉(ハデス)とは書かれていません。そこは黄泉ではなく、地獄に送られる霊たちが捕われている獄と考えられます。19節に「宣べ伝えた」とか「福音を伝えた」とか意訳される語が出てきますが、原文に福音伝道という意味はなく、単に「宣言した」という意味の言葉が使われています。イエス様は地獄に送られる霊たちに向かってご自分の勝利を宣言されたと読むのが正しい聖書信仰です。異教徒や未信者には、一切救いはありません。生きているときにクリスチャンにならなかった人でも死後に救われるチャンスがあると考えるのは間違った聖書解釈です。もし死後に悔い改めができるなら、この世で信仰する意味がなくなります。
しかもこの箇所はノアの方舟の時代に従わなかった霊たちのことであり、その後の死者の霊のことにはまったく触れていません。

私:納得できません。地獄に行く霊とはどこにも書かれていないじゃないですか。ノアの方舟のときに従わなかった霊たちを代表に挙げ、神に従わなかった霊たちでさえ死後に福音を聞くことができる、と言っているのではないのですか。
それに、3章19節に福音という言葉が出てこないにしても、4章6節にはこうも書いてあります、「4:6死人にさえ福音が宣べ伝えられたのは、彼らは肉においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神に従って生きるようになるためである。」(ペテロの第一の手紙 口語訳)
こっちには福音という言葉が出てきます。

彼ら:あなたはずいぶん聖書を読んでいるようですが、キリスト教の初歩的なことも分かっていないようですね。あなたには信仰がないからそんなことが言えるのです。正しい信仰に照らして読むなら、死後の悔い改めという発想は出てきません。
その箇所でいう「死人」というのは、生きているうちに福音を聞いて信じ、今はもう死んでいる人という意味です。生きているうちに福音を信じなかった人に死後に福音が宣べ伝えられることなど、ありえません。

このあたりまでは、一応、議論でしたが、そのあと彼らの一方的な話を延々と聞かされました。
それで感じたのは、彼らが地獄をとてもとても恐れていることでした。

延々と持論を聞かされたあとで、私も反撃に出ました。

私:あなた方の話は、とても極端な、超保守派の聖書理解で、そのような考えの教派は少数だと思います。

彼ら:何度言ったらわかるのですか、私たちは教派ではありません。聖書を文字通り信じる正しいキリスト教です。

私:いえ、教派ではないと主張する教派です。あなた方は、聖書を信じていると言いながら、人間が作り出したイデオロギーを信じているようです。あなた方に救いの実感がありますか。イエス・キリストによって救われているという喜びがありますか。自分の救いの確信がありますか。

私に延々と「説教」していた人の顔が青ざめ、震えているのがわかりました。
彼らの中心人物が、震えながら、怖い顔で言いました。

「私は、本当に自分は救いの中にいるのだろうかと思うときがあります」
本音だったのでしょう。青ざめた顔でさらに言いました。
「でも、もし私が救いの中にいないなら、あなたは私以上に救いの中にいません!」

彼らは、自信たっぷりに語るのに、自分は本当に救われているのだろうかとおびえながら「信仰」していたのです。もし救われていなければ、永遠の地獄で永遠に焼かれてしまうという恐怖におびえていたのです。

私はさらに説得を試みたのですが、彼らはまったく聞く耳を持ちませんでした。
彼らには、先に答えがあるのです。聖書にどう書いてあっても、自分たちの答えに合致するように解釈してゆくのです。

当時の私は彼らを思いやる余裕もなく、とり囲まれてとっちめられて、しまいに頭に来て言いました。

私:あなた方は神は唯一だと信じているのでしょうが、そんなことは悪霊たちだって知っています。イエス様は聖なるお方だと思っているのでしょうが、悪霊たちもそれを知っておののいています。はっきり言います。あなた方の信仰は悪霊のレベルです。終わりの日にイエス様はあなた方に『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け』とおっしゃることでしょう。

彼ら:今の言葉ではっきりしました。あなたは正しい聖書信仰を侮辱し、聖霊を冒とくしています。聖霊を冒とくする者は決して許されることがありません。あなたは決して救われることがなく、永遠の地獄で永遠に苦しむことでしょう。

私:その言葉は、そっくりそのままあなた方にお返しします。あなた方の信仰は悪霊のレベルですから。終わりの日に、仏教徒もイスラム教徒も無神論者もアブラハムの食卓につくときに、あなた方は炎の中で泣いて歯ぎしりすることでしょう。


当時の私は、彼らが原理主義者・聖書カルトだという認識もありませんでした。福音派の中の特に保守的な人たちくらいに思っていました。それに、彼らの思考もよくわかっていませんでした。
その思考パターンが見えてきたのは90年代にジェームズ・バー著『ファンダメンタリズム』を読んでからです。また、福音派と原理主義との見分けは、やがてなんとなく感じるようになりましたが、数年前に読んだマーク・R・アムスタッツ著『エヴァンジェリカルズ』ではっきり知りました。

東方教会の伝統的な考えの「キリストの地獄くだり」(黄泉くだり)も知りませんでした。

当時、ブルトマンの著作も読み始めていたのですが、聖書を書いた古代人の神話的な世界観、天界・地上・下界の三層からなる世界のイメージもよくわかっていませんでした。

また、その当時の私は、理屈のつけようで聖書の言葉を引用してまったく正反対の主張もできるということがよくわかっておらず、聖書の御言葉を慎重に検討すれば正しい理解に行きつくような、そんな思いがありました。


今なら言えます。
彼らが言う「神様」はいません。
神様はいないと言うのではありません。
原理主義者やカルトが言う意味での「神様」はいないのです。

そのような「神様」はいないのだから、おびえることはありません。いない者が、人を審いたり、地獄に突き落としたり、地獄の火で永遠に焼いたりすることはありません。いないのですから。

一部の人間が、聖書をこねくり回して、屁理屈で作り出した「神様」を恐れることはありません。そんなものは人間が頭の中で作り出した偶像ですから。

なぜいないと断言できるのか。それは、福音書から察せられるイエスのメッセージと明らかに食い違うからです。

イエス・キリストは、地獄に送られる霊たちが捕われている獄に行って自分の勝利を宣言したりするのでしょうか。何の救いも希望もなく、今から悔い改めるチャンスもなく、あとはただ地獄に送られて永遠に焼かれる哀れな霊たちの所にわざわざ行って、勝ち誇るのでしょうか。
原理主義者やカルトは、自分たちがそういう価値観だから、自分たちの価値観をイエスに当てはめているのではありませんか。

原理主義者やカルトの見解には非難すべき点が多数ありますが、この一点だけ見ても、彼らが言う意味での「神様」はいないと断言できます。

(伊藤一滴)


ちょっと補足します。
上記の、「教派ではなく純粋なキリスト教」派に反論した私は、二十歳の私です。
今なら、「神話的な世界観の中で生きていた古代人の表現を引っ張ってきて、人は死んだらこうなりますなんて言ってもしょうがないですね。人が死んだらどうなるかなんて、誰も断言できないのですから。でも、キリスト教には希望があります」とでも答えるでしょう。まあ、包括主義か、多元論か、あるいは別な何かがあるのか。
私は万人救済論者ではありませんよ。万人ではありません。神のみこころにかなう人たちに救いがあるのです。その人がクリスチャンであろうが、なかろうが。
「イエス・キリストは、地獄に送られる霊たちが捕われている獄に行って自分の勝利を宣言した」なんて言っている人たちに、はたして、本当の救いがあるのでしょうか。

なお、死者が行くとされる「よみ」は、黄泉と書いたり陰府と書いたりしますが、意味は同じです。パソコンで変換したら黄泉と出たのでそう書いただけで、何か意味があって黄泉と表記したわけではありません。戦前の文語訳聖書以来ずっと陰府と書かれることが多いので、もし戸惑われた方がおられたらすみません。新約ギリシア語のハデスのことです。英語のHades(ヘイディーズ)です。

それと、ノアの方舟は最近は箱舟と書くことが多いようですが、方舟も箱舟も同じものです。

すべて偶然、安倍内閣の日本

桜を見る会の名簿は野党議員が資料請求をしたおよそ1時間後に廃棄ですか。
偶然に?
隠蔽ではない。はあ。

それにしても安倍内閣の日本は偶然が重なりますね。

桜を見る会の問題がワイドショーで追求され出すと、著名な俳優の沢尻エリカ氏が不法薬物の所持で逮捕され、ワイドショーの話題はそっちに行く。
これも偶然。
グーグルの検索で「さ」と押しただけで「桜を見る会」が出てたのに、「さ」と押すと「沢尻エリカ」と出るようになりました。おみごと。


思い出します。

2016年に当時経済再生担当大臣だった甘利明氏への政治献金疑惑が問題になっていたとき、元プロ野球選手の清原和博氏が不法薬物で逮捕されて、話題がそっちに行きましたね。

今年(2019年)3月、沖縄の辺野古埋め立て問題が大きく報じられる中で、これも俳優のピエール瀧氏が不法薬物で逮捕されています。これもまた偶然。

いや~、安倍内閣の日本は、次々に偶然が重なります。

不法薬物を所持したり使用したりしている著名人はあとどれくらいいるのでしょう。

安倍内閣の問題が報じられると逮捕されるんですか?

すべて偶然に。

(一滴)