« 2019年3月 | メイン | 2019年5月 »

「令和」を使おう

(「令和」は政権批判ではないか、という話の続きです。)

もうすぐ令和の時代が始まる。

私は、素人なりに令和というのは政権批判ではないかと感じたが、専門家の指摘を読んでも、その可能性は高いのではないかと思った。

仮に、令和という年号には何も裏の意味などなくて、裏があるという指摘は想像に過ぎない、とする。考案者も、裏の意味などまったく考えておらず、単に偶然が重なってそう見えるだけ、とする。

仮にそうだとしても、「裏の意味が意味を持って動き出す」のである。
それは、裏の意味を疑われても仕方がないことを、安倍政権とその仲間たちがいくつもやっているからである。
政権の側に何も疑われる点がないのなら、誰も裏の意味など疑いはしない。

「平成」と決まったときに、「平成というのは政権批判の元号だ」なんて、私が知る限り誰も言わなかった。当時の政治にも問題はあったろうが、当時は今ほど政権批判を許さない時代ではなかった。
今、安倍政権はささいな批判にも目くじらを立て、種々の圧力でマスコミを黙らせようとする。従う者にはちやほやし、逆らう者を力ずくで抑えつけているように見える。多くの国民は逆らわない方が得だと考えるのか、国民からの批判の声が弱い。それをいいことに安倍氏と仲間たちはますます力をつけ、忖度は行政だけでなく報道の側にまで広がってしまったようだ。「アベノミクスによる好景気」を演出しながら、特定秘密保護法や安保法、共謀罪まで強行採決して戦前回帰に舵を切り、重大な疑獄事件の可能性さえあるモリカケ問題をうやむやにし、関連する公文書の改竄事件が起きても一人の逮捕者も出さず、うやむやにした。

こうした現状に不満を持つ人たちの中に、「令和」という年号には政権批判の意味が込められている、と考える人がいる。それが、たとえ想像上の裏の意味であったとしても、現実の意味を持って動き出すのである。

言葉には魂が宿ると言われるが、ある意味を込めてその言葉を使うなら、言葉はその意味を帯びてくる。

我々は、仮に皇室の御意向や考案者の意図とは無関係だとしても、現政権の体質やそれに似た者たちへの批判の意味を込めて「令和」という年号を使おうではないか。

令和は「うるわしい平和」だという。

それこそ、プラカードに令和と大書きして掲げ、うるわしい平和に反する安倍政権を非難しよう。

令和! 令和! 令和! 

我々の魂を込めてこの年号を使い、日本を令和の国にしよう。

(伊藤一滴)

暴力の連鎖を断ち切らないと

スリランカの爆破事件を報じたBBCニュース日本語版にこうあります(2019年04月22日付)。

引用開始

コロンボ司教区の大司教が、政府に徹底した調査を求めると共に、国民には報復行為を慎むよう呼びかけた。

引用終了 出典:https://www.bbc.com/japanese/video-48008853


この見解を、日本のメディアの報道では見ていません。
この時点ではまだ被害の全体像もわからず、犯人が何者かもわかっていませんでしたが、現地のキリスト教の大司教は、報復行為を慎むよう呼びかけた、というのです。

これが本当のキリスト教精神でしょう。

キリスト教徒は歴史の中で多くの過ちを犯してきました。イスラムの人たちにも、ずいぶんひどいことをしてきたし、今も、それは終わっていません。でもそれはイエスの福音からの逸脱です。

この事件がもし、ニュージーランドで起きたモスク襲撃事件の報復だとしたら、イスラム教への偏見による暴力が、別の場所で、さらに大きな暴力を招いたことになります。
スリランカのキリスト教徒とは関係ないのに。

報復しないことで、暴力の連鎖を断ち切らないと。

犯行グループがイスラム過激派であったとしても、それはごく一部の狂信的な人たちの、本来の宗教の精神に反する活動です。一般のイスラム教徒は無関係です。

モスク襲撃事件のときも、私は、つらい思いで祈っていました。

今回も、祈ります。
亡くなられた人たちとそのご遺族のため、負傷された人たちとご家族、関係者の方々のため、心に傷を負った人たちのために、心から祈ります。
また、犯行グループとその支持者が、自分たちの誤りに気付きますように。
そして、厳しい道であっても、諸宗教・諸民族が和解へ向かって進んでゆくことができますように。

(一滴)

「平和を願う祈り」

スリランカの爆破事件のことを考えていました。
お祝いの日を狙った犯行です。
喜びの日に大勢を殺傷するとは・・・・。
犯人も自爆して死ぬとは・・・・。
重苦しい気持ちのイースターでした。

イスラム過激派の犯行が疑われると報道されていますが、極端な過激思想を持つのはごくごく一部の人たちに過ぎません。
多くのイスラム教徒も、キリスト教徒も、普通に、まじめに生きています。

どうか、この事件が、憎しみの連鎖になりませんように。

アシジのフランチェスコ(聖フランシスコ)の精神を表わすという「平和を願う祈り」を引用します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
神よ、わたしをあなたの平和の道具にしてください。
憎しみのあるところに、愛を
いさかいのあるところに、ゆるしを
分裂のあるところに、一致を
迷いのあるところに、信仰を
誤りのあるところに、真理を
絶望のあるところに、希望を
悲しみのあるところに、喜びを
闇のあるところに、光をもたらすことができますように。
 
神よ、わたしに、
慰められるよりも、慰めることを、
理解されることよりも、理解することを、
愛されるよりも、愛することを
望ませてください。
 
自分を捨てて初めて自分を見いだし、
ゆるしてこそゆるされ、
死ぬことによってのみ、永遠のいのちによみがえることを
深く悟らせてください。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(一滴)

なぜ、復活祭に爆発事件

きのうはキリスト教の復活祭(イースター)でした。

復活祭の頃、当地では春めいてきて、毎年楽しい気分になるのですが、きのうはスリランカの爆発事件の報道を聞いて、考え込んでしまいました。

200人を越える死者、数百人の負傷者って。
家族でお祝いをしていた信者もいたろうに。小さい子もいたろうに。なぜ。

犯行グループの側にも言い分はあるのでしょうが、爆弾で問題が解決するはずはないのに。

なぜ。なぜ。なぜ。

無辜を殺傷して何の益があるのでしょう。その結果、自分も不幸になるだけなのに。

(一滴)

さくら咲く

ふもとで桜が咲きました。

20190418

つい先日まで雪だったのに。春めいてくると、早い。

もうすぐ山里でも咲くでしょう。楽しみです。

(一滴)

原理主義者やカルトの思考・主張

新学期になりました。
この春、地方から、都市部の大学や専門学校などに進まれた方も多くいらっしゃるでしょう。
地方では見かけなかったカルト団体に会うかもしれません。勧誘されるかもしれません。
私は、カルト全般に詳しいわけではありませんが、聖書を学ぶ機会があり、各派のクリスチャンと会って話をする機会もありました。そうした自分の体験をふまえ、これまでもキリスト教原理主義や聖書カルトの問題点を書きました。

20代初めの頃の私は、実際に、原理主義者やカルトに取り囲まれて一方的に議論を吹っかけられ、戸惑いました。いや、正確に言えばそれは議論ではありませんでした。自分の考えを述べて、相手の考えを聞いて、それに対してまた自分の考えを述べて対話するという議論ではなく、彼らは一方的に自分たちの主張をまくしたてるだけでした。こっちが何を言ってもまるで聞く耳を持ちませんでした。自分たちの主張を絶対に正しいとし、一切妥協しない強い思いがあったようで、相手の言うことを聞いたら負けだ、みたいな感じでした。それは信仰というより、他の宗教カルトや左翼セクトと似た、強い思い込みの信念のように思えました。狂信的、病的な感じさえしました。

あれから30年経っても、同じようなことを言う原理主義者・聖書カルトたちがいます。ネットでも見受けられます。ネット上で非難を浴びても「私は正しいことを言っているから非難される」という認識なのかもしれません。
福音派の出版社から『「信仰」という名の虐待』といった冊子も出て、だいぶ時が経っているのに。

彼らは、当時もそうでしたが、今もほぼ例外なく自分たちを「福音派」、「福音的な教会」、「正統プロテスタント」、「正しい聖書信仰」などと称します。中には、「何々派と言うのは分派した団体であって、私たちは派ではありません。聖書に書いてあることをすべて文字どおり正しく信じるキリスト教ですから、教派ではなく純粋なキリスト教です」なんて言う人もいましたが、話す内容は自称「福音派」の原理主義者やカルトとそっくりでした。

それは、自分たちの絶対的な正しさを振りかざす、独善的、排他的、不寛容、攻撃的な人たちでした。人を殴ったりこそしませんが、異論を一切認めず、容赦も妥協もしない人たちでした。(注)

高校を卒業して仙台で浪人していた頃、福音派の教会で親切にしていただきました。牧師先生も信者さん方も良識があり温和な人たちでした。

20代の私は、福音派の中に本当にいい人たちがいるのになぜ同じ福音派と名乗ってこんなに違うのか、わけがわからず、混乱していました。

あれから時間をかけて、考えました。

どうも、福音派と名乗る人たちに、良識と愛の心を持って人に接する誠実なクリスチャンと、かたくなな原理主義の信奉者がいる、そして原理主義者の一部がカルト化してやたら人に噛みついてくる、そう見えてきました。(原理主義とカルトは似ていて、境目がはっきりしません。自分や人の人格を破壊するような活動や、きわめて反社会的な活動をする人たちを、カルトと言っていいのかもしれません。)

それで私は、福音派と原理主義者とを分けて考えるようになりました。
同じ教会に両方の人がいたりしますから、〇〇教会は安全な福音派で××教会は原理主義だ、みたいに、単純に2つに分けられません。それに、中間的な人たちもいます。考え方を色にたとえれば、かなり白っぽい部分と黒っぽい部分があって、間に無限の灰色があり、色むらもある、そんなイメージです。福音派と名乗る人たちは、決して一枚岩ではありません。
ただ、中には、教会全体の原理主義化、カルト化もあるようです。

私は、考えに違いはあっても、福音派的な信仰が悪いとは思っていません。私自身、福音派の方々から親切にしていただいたし、いろいろ学びました。楽しかった思い出もあります。お世話になり、感謝しています。
でも、薬も使い方を誤れば、かえって健康を害するように、「福音派的な信仰」は、まさに薬と似ていると思います。これに出会って良い影響を受け、心が回復する人がいる一方、原理主義的な解釈・指導による悪影響を受け、傷つき、苦しむ人もいるのです。

はたから見ても、使い方を誤った薬の使用に見える「信仰」があります。

自称「福音派」の原理主義者やカルトは、たぶん、頭の中がこんなふうになっているのでしょう。その主張はこんな感じです。(福音派と原理主義者の主張は重なる部分もありますが、原理主義やカルトではない一般の福音派は対話が成り立つ人たちで、他者を一方的に攻撃したりしません。)
前に書いたこと重複もありますが、まとめてみます。


***************

他の教会をことは知らないが、知る必要はない。偽札を見たことがなくとも本物のお札だけ見ていれば偽札を見抜くことができるように、私たちの教会は正しいキリスト教を信じる本物の教会だから、他の教会の見解を学んだり交流したりする必要はない。神様は私たち共におられる。本物の教会にいれば偽物はすぐわかる。

私たちは正しい聖書信仰に立つ福音的な教会であるが、世の中にはそうでない教会もある。
カトリック教会は聖書に書かれていないことを信じ、マリア像を拝んでいるから、間違った教会だ。偶像崇拝だ。カトリックの司祭や信者と話をしたことは一度もないが、間違った信仰を持つ偶像崇拝者たちから話を聞く必要はない。(別の人「私は一人のカトリック信者と話をしたことがあるが、聖書をあまり読んでいないようだし、マリア様に祈るとか、死者のために祈るとか、お祈りの本に印刷されている通りに祈るとか、やはり間違った信仰の人だった。一人の人と少し話をしただけで、カトリック教会全体の察しがつくのは、私たちが正しい教会で学んでいるからだ。本物のお札だけ見ていれば偽物はすぐわかる。」)

リベラル派の教会はこの世の価値観に毒されて、高等批評だの自由主義神学だのを信奉し、これも間違った道に進んでいる。様式史がどうだとか編集史がどうだといった説はみな間違いだ。聖書の成立に口伝の伝承があったとか、共同体による編集の過程があったとか、正しい聖書信仰を持つ者が言うことではない。最近はカトリックまで、こうした間違った考えの影響を受け、リベラル派の仲間になっている。

私たちが非難されるのは、正しい聖書信仰、正しい福音主義に固く立っているからだ。イエス様も正しいことをおっしゃったから非難されたのだ。私たちを非難する人たちはサタンの側にいる。やがて滅ぶべきサタンの側の人たちが何を言おうが、真理の側にいる私たちが彼らから学ぶことなどなにもない。対話の余地もない。

世の中には、「真理を探究するのが学問だ」とか「真実を求める」とか言う人たちがいるが、聖書が真理であり、聖書にすべての真実がある。聖書以外の真実など存在しない。

この世の全体がサタンの影響下にある。
リベラル派やカトリック教会はこの世に属する教会であり、サタンの影響下にある教会だ。私たちはサタンの影響下にあるものをすべて嫌悪する。
この世(=この地上)の伝統、文化、慣習、エキュメニズム、聖書批評学、他宗教、この世の社会的な活動、進化論を教える教育など、みな嫌悪し、排除する。そうしたものはみな、聖書を唯一の信仰の論拠とせず、まことの神を認めない価値観に立つもので、間違っている。無意味どころか有害である。

私たちは神によって選ばれ、伝道の使命を与えられ、世の悪から守られている。この世に勝利し、霊の戦いを全うする。

他宗教の信者や無神論者や同性愛者にも寛容なクリスチャンがいるが、間違っている。そのような、聖書を正しく信じないクリスチャンに騙されてはいけない。正しい聖書信仰を持つ人だけが救われて、他はみなゲヘナ(地獄)の火で永遠に焼かれるのだ。間違ったクリスチャンたちも、異教徒や同性愛者らと共に審かれ、滅ぼされる。

リベラル派やカトリックの間違ったクリスチャンたちは聖書を正しく読んでいないから、救われていない。正しく読めば、聖書には全く矛盾はない。書いてあることはすべて、書いてある通りの事実だ。

聖書はすべて神の霊感によって書かれた誤りのない神の言葉である。一字一句に至るまで無誤である。聖書の正しさは聖書によって証明される。写本間の食い違いは聖書を書き写した人間の誤りであり、聖書の誤りではない。

聖書66巻こそが唯一の信仰の論拠である。私たちは正しい聖書信仰に立ち、聖書66巻だけを信じている。旧約続編付きの聖書を使ったり、聖伝を主張したりする人たちは間違っている。そもそも聖書は66巻であって、聖書に続編など存在しない。続編と称する外典偽典を聖書にくっつけて使っている人たちも出している出版社も間違っている。

他の説もあるが、聖書の年数を計算すれば、紀元前4004年頃、神は6日間ですべてをお造りになっている。聖書に書いてあるとおり、太陽より先に光があり、地球があり、太陽より先に地上には植物があった。それから神は太陽や月をお造りになり、人間や動物をお造りになったのだ。
最初の人は地のちりから造られたアダムであり、そのアダムの肋骨からエバが造られている。人類はみな、神に創造されたアダムとエバの子孫である。それは神話だとか、何万年も何十万年も前にも人はいたとか、生物は長い年月のうちに進化したとか、みな嘘だ。何億年も前に恐竜がいて人類の発生より前に滅んだといった主張は無神論の進化論の考えであり聖書的でない。聖書を信じるなら何億年も前の時代などない。死は、アダムとエバが禁断の実を食べたことによってもたらされた。この二人が実を食べる前に死んだ生き物はいない。それ以前にも死があったという考えは、人間の罪によって死がもたらされたという教義に反する異端思想だ。すべては紀元前4004年頃の創造に始まるのであり、それ以前の世界はないのだから、生き物もいなかった。当然、死もない。人類発生以前の化石とされるものはすべて誤りだ。死がなかったのだから化石になるはずがない。最古の化石も紀元前4004年頃のものであり、それ以前のものはありえない。人と恐竜の化石が同じ地層から出ないのは、単に住んでいた場所が違っていたからで、時代が違うからではない。ある生物が絶滅することはあっても、天地創造のときいなかった生物が、あとから進化によって発生するなどありえない。三葉虫、アンモナイト、恐竜などの絶滅した生物は、ノアの方舟の洪水の時に滅んだと考えるのが聖書的だ。このときに地球全体が水没したのだ。全世界を水没させるだけの水は地球上にないと言う人がいるが、嘘だ、神は何でもおできになるのだ。

聖書に書いてある奇跡も、みな、書いてあるとおりの事実だ。これを合理的に解釈して、科学と矛盾しないように説明するのは地上の価値観であり、間違っている。自由主義神学の影響を受けた人たちが、そうした間違った聖書解釈をしているが、彼らは自分たちをキリスト者と称しながら、サタンの側にいる。

イエス様は聖書に書いてあるとおり、処女マリヤから生まれ、水をぶどう酒に変えたり、病人や障害者を治したり、悪霊を追放したり、湖の上を歩いたり、嵐を静めたり、五千人に食事を与えたりなさったのだ。十字架で死んだ後に復活され、人々の前に現れて語られ、共に食事までなさり、大勢の目の前で天に昇っていかれたのだ。

聖書にはっきり書いてあるこれらの事実を、古代人の神話的な世界観による表現だとか、創作だとか、復活というのは人の心の中に復活したという精神的な現象だとか、合理化して説明しようとするのは間違った異端の考えだ。リベラル派もカトリックも、異端の考えに毒されている。

聖書に矛盾があるとか、歴史的事実と違うとか、一点であれ誤りを認めるなら、それは聖書の霊感を否定することになり、霊感をお与えになった神を否定することになる。聖書は真理である。聖書は、歴史的事実としても科学的事実としても、一切誤りはない。リベラル派やカトリックは現代の価値観に迎合している。それは、神を否定するに等しい。

残念なことに福音派の中にさえ、リベラル派やカトリックと接触し、影響を受けてしまった人物や教会がある。彼らはサタンのわなに落ちてしまったのだ。正しい牧師先生の正しい指導がないままに他教派と交流すべきではない。たとえ相手が福音派の教会でも、交流によってサタンのパン種が入り込むことがある。

私たちのことを原理主義者(ファンダメンタリスト)と呼ぶ人がいるが、これは私たちが信じる真のキリスト教に対する悪意に満ちた侮辱の言葉だ。たしかに、20世紀初頭のアメリカでファンダメンタリズムの勃興があったが、訳せば根本主義である。当時の日本ではそう訳していたし、今も、日本のキリスト教界内では一般に根本主義と訳される。これを原理主義などと訳したのでは、統一協会の原理講論やイスラム原理主義を連想してしまい、何か、間違った原理にとりつかれているようなイメージになる。私たちを原理主義者と呼ぶのは、イメージダウンを意図した侮辱の言葉だ。私たちは、正しい聖書信仰、正しい福音主義の伝統に立っている。正統プロテスタントであり、真に福音的な教会だ。
20世紀初頭の根本主義から学ぶべき点もあるが、私たちは根本主義に属する教派ではなく真のキリスト教だ。

***************

とまあ、こんな感じです。
もっとありますが、延々と書いても仕方ないので、思い出した言葉の中からまとめてみました。

上記のような見解を私が創作できるはずもなく、みな、実際に聞いたことです。
彼らが言っていないことを私が創作して書いた箇所は一行もありません。ただし、違うグループの違う人から聞いた話をまとめた箇所はあります。みな、似たような発想です。

多くの場合、上に書いたような話し方ではなく、たとえば感動的な本を紹介したり、歴史的に活躍したクリスチャンの話をしたりしながら、上記のような見解を少しずつうまく混ぜるんです。話術が巧みな人もいて、心を打つような話の中に混ぜてゆきますから、すぐにおかしいと気づかないことがあるのです。

普通に考えれば説明がつかないことを先入観で信じ込み、そうでない人を非難し、断罪し、少しでも反論されると逆上して「あなたはサタンの支配下にいる、救いの中にいない」と、にらみつけてくる。
規則や禁止事項で自分もがんじがらめにされていて、人をもがんじがらめにしようとして、その状態を「救われている」と言う。
罵詈雑言に満ちた説教を毎週聞かされたり、法外な献金を要求されたりする。
それが、イエス様が人々に求めたことですか?

(伊藤一滴)

(注)原理主義的な考えの人がみな攻撃的というわけではありません。言葉の暴力も含めて、非暴力的な人もいます。「進化論を否定する人はみな暴力的だ」なんて思わないでください。

「令和」は暗号?

令和は「うるわしい平和」という表の意味だけでなく、別の意味も併せ持つ暗号ではないかと思えてきた。

令和の「令」という字は、一度も和暦に使われたことがないという。「律令」や「法令」の令である。「和」は、日本という意味でも使われる。「令」を、法令という意味に解釈すれば、法令日本、と読める。「令」を「りょう」ではなく「れい」と読ませているのも、「法令」を意識してのことかもしれない。

私の勝手な想像だが、これは、憲法を頂点にした法令の規定をなし崩しにして安保法(=戦争法)まで強行採決した安倍さんとその仲間たちへの抗議の年号ではないのか。
日本国憲法を守ると明言なされた天皇陛下、陛下のお気持ちを重んじる皇太子殿下、そして護憲派の万葉学者らの思いを察するならば、決してありえない解釈ではない。

出典とされる万葉集の序文は、類似する中国の文献があるので、純粋な国書とは言い難い。ただし、出典が万葉集である以上、政権側は国書と言い張ることができる。一応、政権側の顔を立てた、ということか。
「国書、国書と言ったって、源流は中国ですよ」という漢籍や国文学の専門家たちの声が聞こえてきそうだ。

令和の出典は、大宰府で大伴旅人が催した観梅の宴で詠まれた歌の序文にある。大宰府は中国大陸や朝鮮半島との交流の玄関口であったから、「大宰府」と聞けば、中国や朝鮮との交流を連想する。ここにも、中国や韓国を嫌う安倍さんとその仲間たちへの抗議を感じる。また、大伴旅人は、藤原氏が権力をふるう政治に不満を持っていたわけだから、これは、特定勢力が政治の実権を握る状況へ不満を持つ人の言葉からの引用である。

しかもここに収められた歌の中で、大伴旅人自身は、「吾が苑に梅の花散る~」と、梅の花が散るさまを詠んでいる。世が世なら、縁起が悪いと却下されたかもしれない年号である。
想像のし過ぎかもしれないが、安倍政権を散る梅の花に見立てた、隠された意図があるのではないかとさえ思えてくる。(令和の「うるわしい平和」という表の意味だけも安倍政権への批判になっているが)

令和が暗号ではないかと思える点が他にもあるが、関係者にご迷惑をかけてもいけないので、これ以上のことは私の胸の中に収めておく。

令和という年号の不自然さを指摘する声もあるが、これを、安倍政権批判の暗号としての意味も持つと考えれば、すべて説明がつく。

だとすれば、政権側の人たちが、自分たちを批判する年号を使わないといけないという、たいへん皮肉なことになる。

(伊藤一滴)

補注:念のため「令和 政権批判」で検索したら、やっぱり出てきました。

https://blogos.com/article/369256/
「安久」とか「安永」といった予想されていた年号が本命だったとは思いませんが、首相は実際に「安〇」や「〇安」を、皇室に打診していたのかもしれません。上記記事では、これをつぶしたのは皇太子殿下とみていますが、真相はわかりません。
私は、「安〇」または「〇安」案を示した首相または関係者に、現天皇陛下も次期天皇陛下も思い切り不快な顔をなされたのではないかと、勝手に想像しています。

https://lite-ra.com/2019/04/post-4640.html
「安倍首相「令和は国書典拠」自慢の間抜け! 大元は中国古典で作者の張衡は安倍政権そっくりの忖度政治を批判」
だそうです。

https://galapgs.com/economics/politics/domestic/meaning-of-reiwa/
「東京大学教授の品田悦一氏は「令和」には、「権力者の横暴を許せないし、忘れることもできない」という意味が込められていると解説しています。」
とのことです。

平成のときは、平成というのは政権批判だなんて声はまったく聞かなかったのに。
「令和が政権批判だなんて妄想」と、簡単に片づけられませんよ。

4月の雪

きのう(2019.4.11)、朝起きたら雪が積もっていて、家の周りが真っ白でした。
15センチくらい積もっていたようです。

いくら山形県の山の中の家とはいえ、4月にこれだけ雪が積もるのも珍しいので、家の前の雑木林で写真をパチリ。

こんな感じ。

Photo

(一滴)

安倍政権批判の令和?

平成の次の年号が発表される前、Twitter公式ツール「#新元号考えてみた」予想ランキングトップ3は次のとおりだった。

安久
安永
永安

どれも「安」がつく。安倍政治が続くよう願っている、とも読める。

他にも、

安泰
安寧

なども上位にランクインしていた。
マスコミやネット上では、新しい年号には「安」の字がつくのではないかと予想されていた。安倍総理は、自分の名を年号に残すのではないかと。

以下はすべて想像で、仮定の話だが・・・・

予想で上位にランキングされた案は外すにしても、安倍氏自身も「安」のつく年号を望んでいたのかもしれない。

もし、安倍総理や安倍政権の関係者が、「安〇」または「〇安」という案について皇室に秘かに打診していたとしたら、

そうした案に、現天皇陛下や次期天皇陛下が不快感を示しておられたとしたら、

それどころか、「現職の総理大臣の姓の一字を元号に使うのはいかがなものでしょうか」といった意味のことおっしゃったか、そこまではっきりでなくとも、そう匂わせるようなことをおっしゃっていたとしたら、

さらに、万葉集を出典にする案を、皇室の側からそれとなく(あるいははっきりと)伝えらたとしたら、

さすがの安倍さんも、皇室に正面から逆らえなかったのではないか。

それで急遽、予定になかった万葉集の権威・中西進氏が呼ばれた、と考えると、

すべて説明がつく。

中西進氏は、平和主義者で護憲派として知られている。安倍氏や氏の仲間たちとは方向が違う。なぜわざわざ安倍政権がそんな人が呼んだのか不思議であったが、それが皇室の御意向であると仮定すれば説明がつく。

今上天皇はご即位に際し、「皆さんとともに日本国憲法を守り,これに従って責務を果たすことを誓い,国運の一層の進展と世界の平和,人類福祉の増進を切に希望してやみません」とおっしゃっておられた。
皇太子殿下も、日本国憲法と今上天皇の御意向を強く意識しておられるようで、他国との友好的な関係や人権や地球環境を重んじるご発言をたびたびなさっておられる。

皇室は、直接的な政治発言はしないが、今回は年号制定に関し、安倍政権に待ったをかけたのかもしれない。

中西氏は自分が「令和」の考案者かどうかを明かしていないが、考案者である可能性が高い。

産経新聞電子版(2019.4.8)にこうある。

引用開始

筑摩書房によると、新元号発表後、書店などからの問い合わせを受け、中西氏の『万葉の秀歌』(ちくま学芸文庫、平成24年刊)の重版を決定。増刷は1万部。2日、中西氏に重版決定の連絡を入れたところ、中西氏からファクスで「『万葉集』は令(うるわ)しく平和に生きる日本人の原点です」とのコメントが送られてきたという。

引用終了

私は、最初、「令和」と聞いて、日本に命令するということかと思ったが、「『万葉集』は令(うるわ)しく平和に生きる日本人の原点です」ということであった。自分の無知による誤解が恥ずかしい。

平和主義者で護憲派の万葉学者が(もしかすると皇室の御意向もふまえて)考案したであろう「令和」が、とても素晴らしい年号に思えてきた。

これは、現天皇陛下、次期天皇陛下、万葉集の学者の、平和の願いがこもった年号なのかもしれない。そこには、わかる人にはわかる形で、安倍政権の好戦的な路線に対する強い批判がこめられているのかもしれない。

もちろん、みな想像である。
単なる憶測と言われるかもしれないが、この想像で、反安倍派とみられる万葉学者が突然呼ばれ、突然年号が決まったことが、すべて説明できるのである。

令和、令和、令和、令和と繰り返し、その、うるわしく平和に生きる思いを感じたい。

(伊藤一滴)

「シカゴ声明」批判

福音派の保守勢力が1978年に出した「シカゴ声明」という、聖書の無誤性の主張があります。正式には「聖書の無誤性に関するシカゴ声明(The Chicago Statement on Biblical Inerrancy)」という声明です。
この声明によれば、聖書は原典においては無誤なのだそうです。

すべての福音派が賛成しているわけではありません。この声明に対し、福音派の内部からも疑問や批判の声が上がっています。

私自身は、この、「原典においては無誤」というのは無理な主張であり、この声明は出されたときからすでに破綻していると考えています。


無誤の聖書原典がどこにあるのか

ありません。
人間の頭の中にしかありません。
それがどうして無誤なのですか。
写本があるのだから、どんどん遡っていけば最初は原本だったはずだ、ということなのでしょうが、聖書が正典と認められた時に、すでに誰も原本を持っていませんでした。
多くの写本が伝えられていますが、写本間には多数の相違点があります。たいして意味が変わらない相違もありますが、中には重大な相違もあります。今日私たちが手にしている聖書は、学者たちが、長い年月をかけて本文(ほんもん)校訂を行なったものです。

神学、聖書学、説教まで、その時代の聖書の校訂本や翻訳に基づいています。誰も持っていない原典に基づいているのではありません。

当然、福音派の神学だって、その時代の聖書の校訂本とその訳に基づいています。

それに、聖書に収められた文書は、原著者による何度かの推敲があったのかもしれません。後の人が推敲したかもしれません。いったい何度目の推敲版が無誤の原典なのでしょう。原著者による最終版ですか。最終版に推敲漏れによるミスなどがあったら、ミスも含めて無誤なのですか。「原典」が無誤なら、後の人がミスを訂正した写本は誤謬になるのですか。無誤っていったい何ですか。

写本には後代の書き加えもみられます。でも、いつから「後代」なのでしょう。原著者が晩年に書き加えたとしたら、それも後代の書き加えになるのでしょうか。

厳密な原典というものは存在しないのです。


人間の言語が無誤になるのか

聖書は人間の言語で書かれました。旧約はヘブライ語で、新約はギリシャ語で書かれました。
言語は、人間の文化の中で発生し、地域によって、また時代の中で変化したものです。
言葉は変化してゆきます。変化してゆくものがどうして無誤になるのでしょう。
それとも、ヘブライ語とギリシャ語だけは特別で、聖書が書かれた瞬間に無誤の言語になったのでしょうか。

イエス自身はアラム語を使っていたと考えられますから、新約聖書に記されたイエスの言葉が、本当にイエスに由来するとしても、それはアラム語からギリシャ語に訳されたイエスの言葉です。
無誤であるという原典はイエスの口から出たアラム語ですか、それとも新約聖書に収められたギリシャ語訳ですか。

言語は場所により時代により変化します。同じ単語が使われていても、場所や時代によって意味が微妙に違ったり、かなり違ったりします。聖書に使われている単語の中には、書かれた時の正確なニュアンスを読み取ることが困難なものもあります。言語は、そもそも、絶対的なものになりえないのです。言語が無誤でないのに、聖書の原典に限って言語で書かれたものが無誤というのは成り立たない話です。

聖書の無誤性を強く主張する人の中に、言語の相対性や、その単語が持つその状況での意味などへの配慮を欠く人が多いように感じられます。(たとえば、新約聖書に出てくる「聖書」という言葉に新約聖書まで含めたり、「哲学」という言葉に近現代の哲学まで含めたり。その時代のその言葉がカバーする範囲を明らかに逸脱する主張をする人たちがいます。聖書に出てくる単語を、本来その単語が持っていない意味で使うのですから、聖書改変の一種です。)

さらに言えば、無誤であるという声明が、どうして英語で出されるのですか。英語も無誤の言語ですか。


日本語版ウィキペディアの歪み

日本語版ウィキペディアのキリスト教関係の用語、特に福音派の用語は、福音派の中でも保守的な立場から書かれているようで、中立的ではありません。
シカゴ声明に対しては福音派内部からも批判の声が上がっているのに(英語版のウィキペディアにはちゃんとそのことも書いてあるのに)、日本語版ウイキペディアの「聖書の無誤性に関するシカゴ声明」の箇所は内部の批判の声を完全に無視しています(2019年4月3日現在)。しかも、統一協会がシカゴ声明を批判しているとして、「シカゴ声明を批判するのは異端的な団体だ」と思うよう、読者を誘導しているようにさえ感じられます。

(伊藤一滴)