クリスマスメッセージ
ホアン・マシア先生の言葉から引用します。
私が下手な言葉で言うより、マシア先生の10年前の次の言葉が、クリスマスとは何かを語っています。
(マシア先生はカトリックの司祭で、以前、上智大学の教授でした。)
引用開始
「主は聖霊によって人となり、乙女マリアから生まれた」
マタイ福音書とルカ福音書におけるイエスの誕生物語は史的事実でもなければ、子供向けのおとぎばなしでもありません。それは信仰の立場からの創作です。その物語を通してイエスとは誰であるのか、そして神はどのように現れ、どこに見出されるのかということが伝えられます。
この話しを奇麗ごとにしてしまうと、マリアの妊娠は奇跡的な出来事であるかのように扱われ、イエスの誕生は例外的なことのように描かれてしまいます。しかし、イエスの誕生は例外的であったというよりも、むしろすべての誕生において起こる不思議な謎はイエスの誕生に照らして解き明かされると言ったほうが適切な読み方のように思われます。というのは、どの子でも親から生まれると同時に、聖なる息吹によって生まれると言えるからです。
マタイ福音書に現れているように、ヨセフはイエスの遺伝の親ではありませんが、マリアの結婚についての歴史的事実まで私たちが遡ることができません。さまざまな伝承が伝えられております。ある伝承によるとマリアは性的虐待の被害者だったのではないかと言われていますが、それは確かめられません。しかし、そうだったとしても、イエスにおいて神が決定的に現れ、イエスこそ我々の間に現れた神ご自身であるという信仰を否定することにはなりません。かえって、どこに神が現れるのかということをますますはっきりと伝えられるようになるのです。
マリアの妊娠がわかって戸惑っていたヨセフにはみ使いが現れるという場面をマタイが描いたのですが、そのときのみ使いの言葉を次のように置き換えることができましょう。「ヨセフよ、心配するな、この妊娠は神の息吹によって見守られています。つまり、どんな事情によって身ごもったにしても神の息吹によってその誕生が見守られています。
引用終了
出典 http://d.hatena.ne.jp/jmasia/20080716
こうした見解に批判もあるでしょうが、私は、現代人に語る言葉として妥当だと思います。
プロテスタントのリベラル派の見解であれば別に驚きませんが、現代のカトリックもここまで言うようになったのかという思いで読みました。
新約聖書を書いたのは古代人です。私たちのような科学的な知識を持たない人たちが、当時の世界観で書いたものです。古代人は神話的な世界観の中で生きていました。だから知的な水準が低い、というわけではなく、神話は当時の人たちの高度な哲学であり表現でした。当時の人たちも私たちのように、日々の生活の中で苦しんだり、喜んだり、何かを願ったり、理想を語ったりしたことでしょう。日々を生きながら、当時の世界観の中で思索し、証しをしたのでしょう。
現代を生きる私たちは、古代人の神話的世界観に基づく表現を文字通り受け入れることは出来なくなっています。(文字通り受け入れようとする人もいますが、それは現代科学を否定することになり、行き過ぎれば極端な原理主義やカルトになってしまいます。)
現代人がそのまま受け入れられないからといって、神話的世界観に基づく表現を否定すれば、その中の大切なメッセージまで見えなくなってしまいます。だから、非神話化が主張されるのです。
マリアの処女懐胎の話は、神話的世界観に基づく表現の一つです。
イエスは特殊な生まれ方をしたから尊いのではありません。すべての妊娠・出産は尊いのです。イエスの言葉も行ないも、その死もたぐい稀なほど尊いものであったから、イエスの復活が信じられ、イエスの没後、時を経て、神話的にイエスの誕生が語られたのです。
ある伝説にあるように、仮に、マリアがローマ兵から性的な被害を受けて妊娠し、イエスを産んだとするならば、それでなにかイエスの価値が下がるとか、マリアの価値が下がるとか、そういった話ではありません。かえって、新約聖書が描く神がどのようなお方なのか、ますますはっきりしてきます。
場所はおよそ2千年前のパレスチナの北部、ガリラヤ。ローマ帝国に支配され、ローマの軍隊がいる地域に住む一般庶民の若い女性の一人が、父親がはっきりしない子を妊娠した。婚約者の男性は、この女性を秘かに去らせようとしたけれど、思いとどまり、妻として受け入れることにした。
神は、いったい、どういう人の側でしょう?
誰をとおして栄光をあらわしたのでしょう?
福音書は、ベツレヘムでのイエスの誕生を描きます。ベツレヘムに来たマリアとヨセフはよそ者です。マリアは臨月なのに、泊まる宿もなく、家畜小屋に身を寄せ、そこでイエスが生まれた場面が書かれています。今の人にとって家畜小屋はなじみが薄いかもしれませんが、私が子どもの頃は、近所にいくつもありました。そこは家畜の糞尿の臭いが漂う場でした。そういう場を、イエスの誕生の場所として描くのです。しかも、生まれたばかりのイエスは命を狙われ、ヨセフは産後間もないマリアと生後間もないイエスを連れてエジプトに逃れた、というのです。
それって、つまり、難民じゃないですか。
イエスは父親のはっきりしない子として、しかもよそ者として、不衛生な場所で生まれ、難民になった、という話です。
聖書は、神話的な世界観の中に生きていた古代人の文書ですが、その中に、現代に通じる大切な証があるのです。
「これらいと小さき者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのです」
というイエスの言葉も記されています。
いと小さき者とは誰でしょう。隣人とは誰でしょう。
現代の私たちに求められるのは、神話を文字どおり信じてそう信じない人を裁くことではなく、神話の中に込められた大切なメッセージを読み取ることでしょう。
祈りましょう。
(伊藤一滴)
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