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年の瀬となりました

私の住む山里は、数日前から突然の大雪となり、雪かきに追われています。
浪人生の長男と高校生の次男と中学生になった娘が手伝ってくれるので助かっています。

今年は、年末ぎりぎりまで仕事をし、ちょっと疲れました。

家族で餅をつき、黒豆や大豆(だいず)、小豆(あずき)を煮る準備をしています。塩引き(塩鮭の寒風干し)もつるしました。今年は郷土料理のからかい(=かすべ、つまり干したエイ)も煮てみようかと思います。


迎えます新しい年が、良い年となりますように。
皆様に、いろいろな幸せが、たくさんたくさんありますように。

体の一部の痛みは全体の苦しみです。他者の痛みはみんなの苦しみであり、世界の一部の痛みは世界全体の苦しみです。

どうかこの世界が、少しでも、良い方向に向かってゆくことができますように。

では、また来年。

(一滴)

クリスマスメッセージ

ホアン・マシア先生の言葉から引用します。
私が下手な言葉で言うより、マシア先生の10年前の次の言葉が、クリスマスとは何かを語っています。
(マシア先生はカトリックの司祭で、以前、上智大学の教授でした。)


引用開始

「主は聖霊によって人となり、乙女マリアから生まれた」

 マタイ福音書とルカ福音書におけるイエスの誕生物語は史的事実でもなければ、子供向けのおとぎばなしでもありません。それは信仰の立場からの創作です。その物語を通してイエスとは誰であるのか、そして神はどのように現れ、どこに見出されるのかということが伝えられます。

 この話しを奇麗ごとにしてしまうと、マリアの妊娠は奇跡的な出来事であるかのように扱われ、イエスの誕生は例外的なことのように描かれてしまいます。しかし、イエスの誕生は例外的であったというよりも、むしろすべての誕生において起こる不思議な謎はイエスの誕生に照らして解き明かされると言ったほうが適切な読み方のように思われます。というのは、どの子でも親から生まれると同時に、聖なる息吹によって生まれると言えるからです。

 マタイ福音書に現れているように、ヨセフはイエスの遺伝の親ではありませんが、マリアの結婚についての歴史的事実まで私たちが遡ることができません。さまざまな伝承が伝えられております。ある伝承によるとマリアは性的虐待の被害者だったのではないかと言われていますが、それは確かめられません。しかし、そうだったとしても、イエスにおいて神が決定的に現れ、イエスこそ我々の間に現れた神ご自身であるという信仰を否定することにはなりません。かえって、どこに神が現れるのかということをますますはっきりと伝えられるようになるのです。

 マリアの妊娠がわかって戸惑っていたヨセフにはみ使いが現れるという場面をマタイが描いたのですが、そのときのみ使いの言葉を次のように置き換えることができましょう。「ヨセフよ、心配するな、この妊娠は神の息吹によって見守られています。つまり、どんな事情によって身ごもったにしても神の息吹によってその誕生が見守られています。

引用終了

出典 http://d.hatena.ne.jp/jmasia/20080716


こうした見解に批判もあるでしょうが、私は、現代人に語る言葉として妥当だと思います。
プロテスタントのリベラル派の見解であれば別に驚きませんが、現代のカトリックもここまで言うようになったのかという思いで読みました。

新約聖書を書いたのは古代人です。私たちのような科学的な知識を持たない人たちが、当時の世界観で書いたものです。古代人は神話的な世界観の中で生きていました。だから知的な水準が低い、というわけではなく、神話は当時の人たちの高度な哲学であり表現でした。当時の人たちも私たちのように、日々の生活の中で苦しんだり、喜んだり、何かを願ったり、理想を語ったりしたことでしょう。日々を生きながら、当時の世界観の中で思索し、証しをしたのでしょう。

現代を生きる私たちは、古代人の神話的世界観に基づく表現を文字通り受け入れることは出来なくなっています。(文字通り受け入れようとする人もいますが、それは現代科学を否定することになり、行き過ぎれば極端な原理主義やカルトになってしまいます。)
現代人がそのまま受け入れられないからといって、神話的世界観に基づく表現を否定すれば、その中の大切なメッセージまで見えなくなってしまいます。だから、非神話化が主張されるのです。

マリアの処女懐胎の話は、神話的世界観に基づく表現の一つです。
イエスは特殊な生まれ方をしたから尊いのではありません。すべての妊娠・出産は尊いのです。イエスの言葉も行ないも、その死もたぐい稀なほど尊いものであったから、イエスの復活が信じられ、イエスの没後、時を経て、神話的にイエスの誕生が語られたのです。

ある伝説にあるように、仮に、マリアがローマ兵から性的な被害を受けて妊娠し、イエスを産んだとするならば、それでなにかイエスの価値が下がるとか、マリアの価値が下がるとか、そういった話ではありません。かえって、新約聖書が描く神がどのようなお方なのか、ますますはっきりしてきます。

場所はおよそ2千年前のパレスチナの北部、ガリラヤ。ローマ帝国に支配され、ローマの軍隊がいる地域に住む一般庶民の若い女性の一人が、父親がはっきりしない子を妊娠した。婚約者の男性は、この女性を秘かに去らせようとしたけれど、思いとどまり、妻として受け入れることにした。

神は、いったい、どういう人の側でしょう?
誰をとおして栄光をあらわしたのでしょう?

福音書は、ベツレヘムでのイエスの誕生を描きます。ベツレヘムに来たマリアとヨセフはよそ者です。マリアは臨月なのに、泊まる宿もなく、家畜小屋に身を寄せ、そこでイエスが生まれた場面が書かれています。今の人にとって家畜小屋はなじみが薄いかもしれませんが、私が子どもの頃は、近所にいくつもありました。そこは家畜の糞尿の臭いが漂う場でした。そういう場を、イエスの誕生の場所として描くのです。しかも、生まれたばかりのイエスは命を狙われ、ヨセフは産後間もないマリアと生後間もないイエスを連れてエジプトに逃れた、というのです。

それって、つまり、難民じゃないですか。
イエスは父親のはっきりしない子として、しかもよそ者として、不衛生な場所で生まれ、難民になった、という話です。

聖書は、神話的な世界観の中に生きていた古代人の文書ですが、その中に、現代に通じる大切な証があるのです。

「これらいと小さき者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのです」
というイエスの言葉も記されています。

いと小さき者とは誰でしょう。隣人とは誰でしょう。

現代の私たちに求められるのは、神話を文字どおり信じてそう信じない人を裁くことではなく、神話の中に込められた大切なメッセージを読み取ることでしょう。

祈りましょう。

(伊藤一滴)

「聖書協会共同訳」刊行

私が住む山形県の山間部は、今年もすっかり雪の中です。
例年通り、家が雪に埋まっても大丈夫なように雪囲いをして、土間で薪ストーブを焚いています。
外は、雪が降ってます。

最近、妻から、「山里記じゃなくて、キリスト教記になっちゃったんじゃないの?」と言われているんですが、キリスト教関係のことを書きだしたら、書きたいことがいろいろあって、話が続いてます。

今月、日本聖書協会が、「聖書協会共同訳」という新しい訳の聖書を出したそうです。クリスマスプレゼントの間に合わせようとがんばったのでしょうか?
ぜひ見てみたいのですが、今のところ現物を見ていないのでコメントのしようがありません。

何しろ私は雪国の山里暮らし。しかも今は雪の中。
山の道を四輪駆動車で上って、道路沿いの車庫に車を止めてから、雪の山道を徒歩で約百メートル歩いて自宅に行くという、そんな暮らしです。車には、大雪に備えてカンジキを積んでます。

冬は、ネット通販も最小限にしています。配達員さんに申し訳ないからです。
それでもヤマト運輸さんや郵便局員さんは、歩いて荷物を持ってきてくれます。車庫に置いていいですよ、と言っているんですが、持ってきてくれます。ありがたいやら、申し訳ないやら。
(佐川急便からは電話がかかってきて、車庫まで取りに行ってます。)

そんな暮らしなので、聖書を売っている店にすぐに行けないんです。
買うなら、よく見てから買いたい。

これまでのようにイエスの言葉は「~である」調なんでしょうか。
ふつう、会話でそんな言葉は使いません。

私は「新改訳聖書」のイエスの言葉のような、ていねいな言葉づかいが好きです。翻訳の良し悪しについてはいろいろ言われていますが、現代の日本語に訳されたイエスの言葉づかいに関しては、この新改訳が特に好きです。
これは私の想像ですけれど、イエスは、一般の人にはていねいに話しかけていたのではないかと思うのです。これまでの日本聖書協会訳のイエスの言葉づかいがずいぶん居丈高に聞こえ、不満に思っていました。

今回の訳も、イエスが「~である」調で会話しているなら、買うのをやめようかな~と考えています。

よほど画期的な訳ならともかく、これ以上日本語の聖書を増やしても仕方ないかな~。

(一滴)

「そのときにはもう遅すぎた」

今の日本の状況を、ニーメラーの言葉を模して書くと、こんなふうになるのでしょうか。

在日外国人がひどい目にあった
私は在日外国人ではないから黙っていた

福島県民がひどい目にあった
私は福島県民ではないから黙っていた

沖縄県民がひどい目にあった
私は沖縄県民ではないから黙っていた

私がひどい目にあった
私は、抗議のために立ち上がろうとした
でも、そのときにはもう遅すぎた

(伊藤一滴)

神が殺した人数と悪魔が殺した人数

聖書の中で、神が殺した人数と悪魔が殺した人数だそうです。

http://www.rationalresponders.com/forum/3582

(英文ですが、図表が示してありますし、それほど難しくない英語なので見ればわかります。)

それによると、

神が殺した人数、2,038,344人
悪魔が殺した人数、10人


ソドムとゴモラで殺された人の数や、エジプト人の初子が殺された数などは不明なので、入れていないとのことですが、こうした人数も加えれば神が殺した数はさらに増えます。

ノアの箱舟の洪水のときに、ノアの家族以外の人類は死滅しているはずなので、それも加えたらものすごい数になることでしょう。

それにしても、聖書の中で神が殺した人数が分かっているだけでも2百万人以上で、悪魔が殺したのが10人とは。

悪魔(サタン)が殺した10人にしても、「ヨブ記」のヨブの子どもたちですから、これだって、神が許したから殺されたのです。

(一滴)

エディス・キャベル

いつものようにパソコンに電源を入れ、グーグルのトップページを見たら、バラの花に囲まれた女性とその背後で避難する兵士たちの絵。

Photo

今日12月4日は、エディス・キャベル女史の誕生日なんですね。

エディス・キャベル(イーディス・キャヴェル)の名は日本ではあまり知られていませんが、第一次大戦中、敵味方の区別なく大勢を助けた看護師です。

日本のウィキペディアにこうあります。
「第一次世界大戦当時の両陣営の兵士の命を差別なく救い、200人以上の連合国軍兵士がドイツ占領下のベルギーから脱出するのに尽力した。そのためドイツ軍に捕らえられ軍事法廷で反逆罪の有罪判決を受け、死刑を宣告された。赦免のための国際的な圧力にもかかわらず、キャヴェルはドイツ軍銃殺執行部隊によって射殺された。」
「彼女は聖公会の篤い信徒で、その信念に従って、助けを必要とするすべての人々、ドイツ、連合国の両陣営の兵士に救いの手を差し伸べた。「助けを必要とする命がある限り、私は働き続ける」I can’t stop while there are lives to be saved.という彼女の言葉が知られている。」

近代看護の先駆者の一人が、こうして、死んでいきました。

多くの人の命を救った人が死罪になるというのは、実に、理不尽です。
戦争になれば、多くの敵を殺した人が英雄で、敵の命を救った人は反逆者なのでしょう。
価値観がひっくり返ってしまうのですが、それが戦争なのですね。

グーグルが取り上げてくれたことで、キャベル女史の活動を知る人もいるでしょう。
広く知られてくれたらいいな、と思います。

(一滴)