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食料の自給へ

クリスマスとか、お正月とか、楽しいことが近づいてきましたが、私の話は楽しい話ではありません。

この先、食料難と物不足がいっぺんにくるだろうと、私はこれまで予言のようなことを言い続けてきました。なんとなくそんな感じがする、とか、誰それがそう言っているからとか、あの本に書いてあるからとか、そんなレベルの話ではなく、自分のこれまでの知識と体験を総動員して現状を見ると、そう考えるしかないからです。素人の私が見ても、日本の国を支える食料やエネルギーや各種原材料の供給体制はあまりにも脆弱です。テレビコマーシャルの巧みな演出や、大型店に並ぶ物品の数々に目を奪われそうになりますが、足元を見れば、ガラス細工のシステムの上を綱渡りしながら大量の供給を維持しているような状況です。

以下、本から引用しますが、本の影響でそう思うようになったのではなく、以前から食料難と物不足がいっぺんにくるだろうと思っていたので、参考になりそうな本から引用します。

まず、自然卵養鶏で知られる中島正氏の著書『農家が教える自給農業のはじめ方』[農文協2007]の「はしがき」です。長くなりますが「はしがき」を全部引用します。著者が提唱する小規模の庭先養鶏や自給作物の栽培について具体的な内容を知りたい方は、是非この本を買ってお読みください。

引用開始
 はしがき
 この書は、喧騒の都市生活(文明の脅威)から逃れて、田舎暮らしをしてみようと志している人々に、いくらかでもお役に立てばと思い書かれたものである。
 かつて人々は、田舎では生活できないと、都市に逃れ出たのであったが、いまでは逆に、都市での生活は危険であると、田舎に逃避しなければならなくなった。かの哀愁演歌「ああ上野駅」はそのまま「さらば上野駅」として歌い継がれていくときがきたのである。
 では田舎に逃れて、何を目指して生活していくのか。
 田舎にも細々ながら二次、三次産業はあるが、私がおすすめするのは、そういう都市産業従属型の仕事にありつくことではなく、また機械化大型耕種農業や、季節外れの贅沢野菜栽培をやろうというのでもない。私が提唱したいのは「自分の食い扶持は自分でまかなう」自給自足型の小農を目指す---いわば人間生存の基本に戻ろうということである。
 難しいことではない。これは遠い何千年も前のわれわれの先祖がみなやってきた、そのお習(さら)いにすぎないのだ。誰でも容易に取り組むことができ、どんな初心者でも自分が糊口するくらいの作物はつくれる、いわゆる「百姓」に戻ろうというのである。
 そこで本書は、まず自給自足の第一歩、「肥料の自給」を行なうための庭先小羽数養鶏から、主食となるイネ(陸稲)やムギ、副食としての野菜、果物、山菜など自給食物全般の栽培・採取や農産加工の方法まで、新規就農の入門書としてわかりやすく述べたものである。
 小羽数養鶏は低コストででき、半年後には卵を産みだすので、売れば日銭も得られる。鶏ふんを使うため、化学肥料を購入しなくてもよい。一人当たり五アール、一五〇坪もあればイネやムギ、野菜を充分まかなえるのである。
 いまや、食料過剰の時代は過ぎた。世界の食料は、大地の砂漠化や耕地の都市化、穀物のバイオエタノール化などにより急速に不足の様相を帯びてきた。加うるに国際情勢しだいでは、食料の輸入途絶も起こりうるであろう。今日の飽食は明日の飢餓となる。人間はオモチャやアクセサリー、車やカメラなどでは生きられない。いまこそ、自分の食う分くらいは確保できる自給農に転換すべき絶好の機会だと思うのである。
 二〇〇七年八月
 中島 正
引用終了

ちなみに中島氏の略歴にはこうあります。
中島 正(なかしま ただし)
1920(大正9)年生まれ 陸軍工科学校卒、戦中は台湾軍所属(「台湾軍」というのは、当時台湾に駐屯していた日本軍のこと。引用者注)
戦後、郷里岐阜県山村にて小農暮らし
自然卵養鶏を営む 以下略

「田舎暮らしがうらやましい」と言う人も、「でも、収入を得る道が限られるから、定年後ならともかく今は無理」という話になるのです。多くの人は「産業に従事して収入を得るしかない」と考えます。でも、これは、再考の時が来たのではないかと思います。今からもずうっと、いわゆる「サラリーマン」が安定した職業であり続けるのかどうか。
零細企業であれ大企業であれ、規模の大小にかかわらず、やっていることは、走り続けないと倒れる自転車のようなものです。自転車が小さいか大きいかだけの違いに過ぎません。大企業といえど、一生懸命こぎ続けないといけない巨大な自転車操業なのです。
大量生産システムが行き渡り、供給過剰を招いている今、これ以上何を作り、誰に売り続けるのか。供給システムが国内の需要を越えています。これまで日本の大企業は海外に売ってきましたが、今や世界の経済は「グローバル化」し、世界同時大不況も起こりますし、長引く可能性もあります。それに、世界といえど、無限の需要などありません。なんとか売り続けたとしても、資源やエネルギーをどう持続させ、産業活動によって必然的に生じる環境問題にどう対応するのか。百年後どころか、数十年先も見えません。
どんな産業も長期的には持続しない、これは何度も言ってきた通りです。

日本には800兆円を越える負債があります。利息は別にして毎年10兆円づつ返しても80年以上かかる計算になりますが、返済どころか借金は増える一方です。
年収300万円くらいの人が、自分の借金を返さずに毎年400万も500万も使っていたらどうなるのでしょうか。
日本という国がパンクしないのが不思議です。
いつかは、ほとんどの自治体と日本政府自体が、夕張市のようになるか、もっとひどくなるかでしょう。「公務員なら間違いないから、就職するなら公務員」といった考えは通用しなくなるでしょう。
ソビエト政府が崩壊したときロシアの物価は何十倍にもなったそうですが、日本で超インフレが起きて、物価が30倍とか50倍とかなったとき、年金生活者やサラリーマンはどうやって暮らしていくのでしょうか。

私はたいしてお金を持っていませんが、もし持っていたら、すぐにでもユーロに替えてヨーロッパの銀行に貯金するか、金貨に替えて埋めておくか、何か考えるでしょう。ドルは、今はともかく、長期的には怪しい貨幣です。アメリカ合州国の衰亡と共に、国際通貨の座を失うのではないかと思います。

もう一つ、日本がかかえる大きな不安材料は、急速に進む少子高齢化です。1人の女性が平均1人しか子を産まなければ、世代が変われば人口が半分になる計算になります。食料不足の時代が来るなら人口が少ない方がよい、という考えもありますから、少子化は悪とばかりも言えませんが、人口が半減するまでの間、人口に占める高齢者の比率が高まる中で、減ってゆく若い世代が高齢者を支え続けられるのか、という問題があります。本当に食料が不足し、荒れた農地や山林を開墾して田畑を作ろうとしても、その時、それだけの労働人口があるのでしょうか。仮に人を集めたとしても、若い世代に開墾の知識や道具を使う技術があるのかどうか、そして、そもそも、開墾用の道具がそれまで残っているのでしょうか。

今はちょっと違いますが、少し前、トヨタ自動車の景気がうんと良かった頃、山里の高齢者たちと雑談していると「うちの町にもトヨタの工場でも出来るといいんだが」といった話が出ました。「そうすれば、働く場が出来て、うちの息子も帰って来てくれるかもしれない。よそからも人が来て、町も元気になるだろう」みたいな話です。
私は、「それはどうでしょうか」と言ったくらいでそれ以上反論しませんでしたが、今の自動車工場の派遣労働者たちは鎌田慧氏の『自動車絶望工場』に出てくる労働者をうらやましがるそうです。「絶望工場」の労働者をうらやましく思うほどひどい状態って、一体どんな状態なのでしょう??
自然環境に恵まれた農村地帯に、なんで自動車工場。
自動車工場を望んだりするのは年代の違いかと思ったら、1920年生まれの中島正氏は「田舎にも細々ながら二次、三次産業はあるが、私がおすすめするのは、そういう都市産業従属型の仕事にありつくことではなく」とおっしゃるんです。年代の差ではなく考えの違いですね。田舎の工場は都市の植民地で、まさに「都市産業従属型の仕事」です。いつかは行きづまる産業と運命を共にするのはごめんです。

これまでは「細々とした農業では食べていけないから、大型の機械を使い大規模農業を行なうべきだ」と言われてきました。また、「真冬のトマトやキュウリのように、ふつうはその季節に育たない作物をビニールハウスで育てて収益を上げるべきだ」とも言われました。どちらも「産業としての農業」です。そして、エンジンやモーターや合成樹脂、電力、石油系燃料、化学肥料といった、産業が供給する物品に依存する農業です。それは、工業系の産業が破綻すれば共に破綻する農業です。「機械化大型耕種農業や、季節外れの贅沢野菜栽培をやろうというのでもない」とおっしゃる中島氏は見抜いておられます。
「いまこそ、自分の食う分くらいは確保できる自給農に転換すべき絶好の機会」と、中島氏は言うのです。

食料が不足するときには衣類なども不足するのでしょうが、食料と違って食べてなくなるものではないし、すぐに消耗はしません。保存して腐るものでもありません。それで、まずは食料のことを書きました。
今日はここまでにします。(伊藤)

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