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「宗教は民衆のアヘン」

前回「マルクス哲学批判序説」なんて書きましたが、タイトルはもちろんマルクス著「ヘーゲル法哲学批判序説」のもじりです。
この「ヘーゲル法哲学批判序説」は若きマルクスの名著の1つですが、これに、かの有名な「宗教は民衆のアヘンである」という言葉が出てきます。

「宗教上の不幸は、一つには現世の不幸の表現であり、一つには現実の不幸にたいする抗議である。宗教は、悩めるもののため息であり、・・・・・民衆の阿片である」(「ヘーゲル法哲学批判序説」)

これは、貧困や権力の支配に苦しむ民衆にとって、宗教が苦しみを緩和する役割を果たしていたことを、アヘンに例えて言ったのでしょう。
アヘンには鎮痛効果のあるモルヒネが重量比で約10パーセント含まれているそうです。アヘンは、マルクスの時代の高価な鎮痛剤でした。他の文脈からも、この言葉は、「宗教は民衆の麻薬」というより「宗教は民衆の鎮痛剤」と解すべきだ、と考えられます。

鎮痛剤は痛みを止めるだけで病気や怪我を治してはくれません。マルクスの言葉は、「宗教は、民衆の痛み・苦しみを麻痺させる鎮痛剤であるが、その痛み・苦しみの根本原因を取り除いたり、治療したりはしてくれない」と読めます。

今は、どうでしょうか。宗教界は今日もなお、マルクスの問いを突きつけられているのではないかと思います。(伊藤)

マルクス哲学批判序説

先に書いたとおり、私は左翼ではありませんが、学生の頃、マルクス主義系の著作も読みました。まだ、そういう時代でした。1980年代半ば、大学でもマルクス経済学やマルクス主義思想に関する授業があり、マルクス主義は学問として扱われていて、当時はまだ正面から批判するのがためらわれる雰囲気がありました。

ソ連も東欧諸国も崩壊して久しい今では、マルクス主義批判などいくらでも出来ますし、書き出したらきりがありません。最近は、特にマルクス経済学など初めから相手にもされないのか、あまり批判も聞かなくなりましたが、ひところ前まで世にはマルクス経済学やマルクス主義国家に対する批判が数多く出まわっていました。でも、そのわりに、疎外論や自然観についての批判はあまり目にしませんでした。

マルクスは、資本主義体制化での労働が人間を疎外する、と考えていました。産業文明それ自体は人類の発展によるものとされ、蒸気機関や電力の使用による生産力の拡大が期待されました。マルクスは、ブルジョアジー(資本家階級)が生産手段を独占していることが問題なのであって、革命によってプロレタリアート(労働者階級)が生産手段を手にすることを期待しました。日本でも30~40年前まで、「資本主義体制下での人間疎外」を無批判に信じ込んでいる人が少なからずいたようですし、私が学生だった1980年代半ばにもかなりいました。
でも、私は、人生経験を積むうちに、労働によって疎外されてゆく原因を「資本主義体制だから」と言うには無理がある、と思うようになりました。労働による疎外は、体制がどうこうではなくて、単に「仕事に意義を感じないこと」が原因だと素直に考えたほうがよいのです。

科学技術が進歩し、産業文明が発達し、意義を感じない仕事が増えました。資本主義だろうが社会主義だろうが民主主義だろうが王政だろうが、意義を感じない仕事が続けば人は疎外されていくのです。
そんなことを思いながら、そもそも仕事とは何か、労働とは何かと、あらためて考えているところです。

これは、内山節著『戦争という仕事』にあったのですが、「マルクス主義も人間中心の近代思想」であり、自然は開発して利用すべきものであって、自然の恵みによって人は生かされているという視点を欠いていたといいます。
たしかに、マルクスの主張には「自然の恵みの中で働くことの喜び」は感じられません。人民が生産手段を手にし、機械の力で人間の労働を軽減すれば、余暇が増え、幸せになる、みたいな主張です。これは、「労働は苦役であり、機械力でなるべく人間の労働を減らした方がよい」と読めますし、「社会主義社会には大自然の中で汗を流して働く喜びはなく、楽しみは余暇だけ」とも読めます。
こうした考えでは、自然に対する感謝や畏れの念も出てきません。自然の中に神(あるいは仏)の働きを感じ、畏れ敬う気持ちも出てきません。人知を超えたものへの敬意を欠くどころか、自然は開発して利用するものであり、宗教は、権力が人民を支配するための道具にしか見えません。

マルクス主義は経済学や国家論の欠陥だけでなく、疎外論や自然観にも無理があるのです。
でも、みんなあまり言いません。
それは、自己疎外は資本主義も社会主義も同じだし、資本主義もまた人間中心の近代思想で、自然の恵みによって人は生かされている、自然の恵みの中で働くことは喜びである、といった視点を欠いたまま、科学信奉、産業信奉の方向で、自然を都合よく開発しながら続いてきたからです。マルクス主義の疎外論や自然観を非難すれば、資本主義も同じように非難しないといけなくなるからです。(伊藤)

左翼系の衰退と再興?

私が高校生のときなのでだいぶ前の話ですが、『資本論』の研究で知られる某著名経済学者が、日本の卵のまずさとソ連(当時)の卵のうまさについて書いた文章を読んだことがありました。当時でさえ、私は、変だなあと思いました。ちょっと考えればわかることですが、卵の味と社会主義の優位性を結びつけて論じるのはそもそも無理な話です。資本主義体制化の養鶏業者は利潤追求を本質に卵の生産をするからまずい、それに対し、社会主義国の卵はうまい、などどいう理屈はイデオロギー的先入観であり、某氏がソ連の卵はうまいと感じたのは、単に当時のソ連の養鶏が「遅れていた」からに過ぎません。その後ソ連でもゲージ飼いの養鶏が主流になったので、卵はまずくなったことでしょう。資本主義か社会主義かではなく、産業の発達が食品の味を悪くしたのです。

私は学生の頃、タイやフィリピンの農村を旅したことがありますが、現地の農家でご馳走になった卵はおいしかったですよ。昔ながらの、地面に鶏を放し飼いにした「遅れている」養鶏の卵はおいしいんです。
食料の生産は、近代的・科学的な方法より、「遅れている」やり方の方がうまい。「進歩」するほど味が悪くなるのは、自分の舌で確かめても明らかです。調理もそうで、たとえば魚を焼くときに、囲炉裏や炭火はうまく、ガスは一段落ちます。IH調理器だと、ガスよりさらに格段落ちます。
それがわかっていますから、私は「遅れている」暮らしが好きです。

社会主義の優位性など、初めから怪しかったのですが、かつて多くの知識人が惑わされ、体制側の人たちさえも影響を免れることができませんでした。たとえば、戦後の日本は、社会保障政策などにより資本主義の矛盾が拡大しないようにしてきましたが、それは人道的な配慮というより経済や治安の維持の面もあったのでしょうし、社会主義思想が広がるのを防ぐため、対抗改革的に社会保障を進めた面もあったのでしょう。
今や社会主義は崩れ、社会主義思想に基づいて説得力のある批判を突きつけてくる論客もありません。資本主義はもう、左翼系の論者の発言に神経を尖らせる必要もなく、社会主義そのものを意識する必要さえなくなったかのようです。

でも、それでよいのでしょうか、資本主義は勝ったのでしょうか。生活保護を断わられて餓死者が出る日本です。階級対立など過去の話だったはずなのに、「フリーター」、「派遣労働者」、「零細経営者」といった「階級」が発生してきました。どんなに働いても貧困から抜け出せない人たちがおり、「現代の蟹工船」、「現代のタコ部屋」とまで言われるようになりました。戦前の『蟹工船』には戦うイデオロギーを感じますが、そうしたイデオロギーが崩れ去った今、どこに精神的な支柱を求めればよいのでしょう。
今の日本の現状は『蟹工船』以上に、明治期の『職工事情』に似ているのではないかと思います。福祉学生の頃、文語体で書いてあるのが気にならないくらい夢中で読んだ『職工事情』ですが、『職工事情』の労働者たちは、そもそもが低賃金・重労働で、事前の職業訓練もないままに過酷な労働の現場にいきなり放り込まれ、訓練を受けていないから高価な材料や機械を破損させ、罰を受けたり減俸されたりで、これ、現代の非正規雇用労働者を思わせます。
時代が変わっても、人のやることは似ています。

極端な格差の拡大は、戦後続いてきた福祉国家的資本主義が、特に小泉改革以降、むき出しの資本主義的な方向に転じたためでしょうが、国家が国家の力で修正を加えなければ、ますます弱肉強食の方向に向かうであろうと予想されます。そもそも資本主義体制下の企業に長期的未来という視点はないので、国がしなければ誰もしません。そして、国の方向を定めるのは、主権者である国民です。

マルクス主義には認識の根本にかかわる致命的な欠陥が多く、未来に向かう思想にはなりえないと思います。しかしながら、資本主義の原点復帰を思わせる日本の中で、レーニンの『帝国主義論』の新訳(光文社、古典新訳文庫)も上梓されていますし、小林多喜二の『蟹工船』も売れに売れています。
個人的には、ロバート・オーエンのようなもっと古い社会主義思想や、さらに、もっと昔の人たちの考えにも注目してほしいと思うのですが・・・・・。

私も、地方の零細業者や農家の苦境を身近に感じていますから、『蟹工船』に共感する人たちの気持ちがよくわかります。ただし、私は左翼ではありません。マルクス主義は人間を解放しません。それどころか、今以上に人間の自由を奪うであろうことは、すでに歴史が証明している通りです。

国の方向を定めるのは主権者である国民ですが、あのヒトラーも民主的な選挙で合法的に選ばれた事実を忘れないようにしたいものです。
定めるべき視座は、長期的未来です。(伊藤)

稲作を始めて思ったこと

最近、田んぼの話ばかりですが、稲作というのは感動体験の連続です。
励ましのメールやコメント、ありがとうございます。

これまでずっと、毎日お米のご飯を食べてきたし、田舎では田んぼの風景は珍しくないので、お米は特に意識しないくらい身近な存在でした。だのに、身近なわりには稲の生育について知らないことばかりです。
今回、生まれて初めての稲作をしながら、学ぶことが多いです。

代掻きのために田んぼに水を入れるとき、地主の真壁(まかべ)さんは、
「じゃあ、水を使わせてもらって始めよう。伊藤さん、水路の水をもらってきて」
と言いました。水利権があるのだから、水は使って当然なのでしょうが、水は使わせてもらうもの、もらってくるもの、という感覚なのです。
もともとは、田んぼの水は天の恵みです。それを地域の人たちが共同で管理しています。「水を使わせてもらう」という感覚に、農家の精神を感じました。
考えてみれば水道の水だって同じでしょうが、蛇口をひねれば水が出るのが当然の暮らしの中で、水のありがたさを特に意識しなくなり、私も、水道料金を払っているんだから使って当然のような感覚でした。水道水だってもともとは天の恵みであり、水道局や水道工事会社の人たちの働きに支えられているのに・・・・・。
どうも、便利になると、その便利さがあたりまえになってしまい、自然の恵みのありがたさや、システムを支えている人たちの労苦を思わなくなってしまうようです。

集落の区長さんが通りかかりました。区長さんも真壁さんという方です。
「よお、伊藤さん。田んぼ、がんばってるなあ」
「はい、皆さんに教えてもらいながらやってます」
「そうだなあ、みんなから聞いて覚えるのも大事だけどなあ、田んぼがなにより田んぼの先生だからな。田んぼのことは田んぼから学ぶのが一番の勉強だ」
田んぼのことは田んぼから学ぶ、なるほど、と思いました。日頃田んぼをよく見て、田んぼに触れて、田んぼのことを知るべきだ、ということなのでしょう。

自家用に小型の田植え機を買った話を書きましたが、それは次のような事情です。
最初は地主の真壁さんの大型の田植え機をお借りするつもりでした。そしたら、いろいろ故障が見つかり、機械屋さんに見てもらったら修理にはそうとうの費用がかかるというのです。真壁さんは、「修理費は私が出すから心配しなくていいよ」とおっしゃるのですが、もう真壁さんが使うつもりのない機械を、単に私に貸すためだけに高額の修理費をかけて直してもらうのも申し訳なく、中古の小さな田植え機を探したのです。田植え機は使う時期が重なるので、他の農家から借りるわけにもいきません。
小型のものは、なかなか中古市場に出ないそうで、もう田植えの直前でしたが、つき合いのある機械屋さんに特にお願いして、なんとか探してきてもらい、大至急整備してもらって間に合わせました。
小型なので、小回りがきいて、快調です。

話は変わりますが、
世界では、さまざまな天災・人災が続いています。特にビルマ(ミャンマー)のサイクロン被害や中国の地震被害は、報道を聞くたびに胸が痛みます。救援が遅れれば助かるはずの命まで助からなくなってしまいます。人や建物だけでなく田畑の被害も深刻で、食糧が不足する恐れもあります。両国とも、問題の多い政権ですが、国民に罪はありません。今、国際的な支援の環が広がりつつありますが、これがさらに広がることを願っています。(伊藤)