« 2025年11月 | メイン | 2026年1月 »

あれかこれかの二分法思考は危険(再掲)

これまでいろいろなクリスチャンと話をして感じたことの一つは、クリスチャンの中に、あれかこれかの二分法思考の人がかなりいる、ということです。

たしかに、聖書そのものに、あれかこれかのような発想もあります。光と闇、信仰と不信仰、救いと滅び、みたいな発想です。でも、聖書のすべてが二分法ではありませんし、二分法はこの世界のすべてに当てはまるわけでもありません。

私は、何でもかんでも二分法を当てはめるような考え方では駄目なんだとずっと言ってきました。

原理主義やカルトも「福音派」とか「聖霊派」とか自称しますが、彼らの宗教は最初から答えがあって個人の判断を許しません。そして、何でもそれが善なのか悪なのか、価値があるのか無価値なのか、救いなのか滅びなのかみたいに、2つに分けようとする二元論、二分法なのです。あれかこれかと2つに分けて自分たちは正しい側にいると思い込むんです。

この世界は白か黒かの碁石が置かれた碁盤じゃありません。碁石なら、白でなければ黒、黒でなければ白ですが、現実の世界には判別が難しいものや中間的なものがたくさんあるんです。どちらか2つに1つというのはわかりやすいんですけれど、そのわかりやすさで、2つに分けられないものを無理に分けてしまってはいけないんです。

そうした二元論の思考になってしまうと、何でも正か誤かに分けようとして、自分は正の側、救いの側だと思って、この正しい教えを伝道しないといけないという使命感に燃えるんです。でも、それって、単に、特定教派の特定牧師から植え付けられたイデオロギーですから、そこに客観性も普遍性もないんです。

真面目な人がからめとられてしまって、指摘しても、気づきません。自分の信仰を否定されたと思うのか、火がついたみたいになって怒るだけです。私は、キリスト教の信仰を否定したことなどないのに。
マインドコントロールされ、それが進んでしまうと、説得は難しいようです。

「救い」か「滅び」か2つに1つみたいな、二分法の思考から離れると楽なのに。
「この教会から離れたら、滅びる、地獄に行く、永遠に焼かれる」なんて考えていたら、恐怖による縛りで離れられなくなって心の平安なんてないです。

心に平安のない信仰って、イエスが教えた信仰ですか? あるべき信仰ですか?

キリスト教の否定ではありません。カルト思考では駄目なんです。自称「福音派」「聖霊派」の原理主義やカルトのイデオロギーに支配される生き方では、自分の人生を生きることができなくなるのです。


クリスチャンの中に、「その人は信者か未信者か」と、人のキリスト教信仰の有無をすごく気にする人がいます。どうもそういうクリスチャンたちは、頭の中で全人類を「クリスチャン」と「非クリスチャン」の2種類に分けて、「それ以外の人間はいない」と思っているみたいです。
そして、「クリスチャンだけが救われ非クリスチャンは滅ぶ」と考えているようなのです。
そんなふうに、すべての人をあれかこれかの2つに分けられるのでしょうか。

もしイエスの教えに基づいて全人類を2つに分けるなら、その人が「クリスチャン」として生きているのか「非クリスチャン」として生きているのかではなく、「天の父のみこころにかなう者」か「みこころに反する者」か、となるのではありませんか。しかも、中間的な状態だってかなりあるでしょう。

「天の父のみこころにかなう者」か、「みこころに反する者」か、と考えた場合、「天の父のみこころにかなう者」=「クリスチャン」とは言えなくなります。

私は、どうも、非クリスチャンに「天の父のみこころにかなう者」が多数いて、クリスチャンの中に「みこころに反する者」が多数いるように思えてなりません。


マタイ福音書にこうあります。

7:21わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。 7:22その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』 7:23しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』(新改訳初版)

「天におられるわたしの父のみこころを行なう者」とあり、「キリスト教の信仰を持つ者」とは書いてありません!

自称「福音派」は、『主よ、主よ』と呼びかけるのが大好きです。
自称「聖霊派」は、預言がどうだとか、悪霊追放や奇跡の業がどうだとか、大好きです。

そういった人たちが、さも自分たちは正しい信仰であるかのように語ることをマタイ記者は知っていたんですね。

もちろん福音派も聖霊派も、その多くは健全な信仰を持つ善良なクリスチャンだと思います。でも、「福音派」「聖霊派」を称する一部に原理主義者がおり、カルト化も見られるのです。


その人が、見える形でキリスト教の信者なのか信者でないのか、それがそんなに大事なことなのでしょうか。(まあ、教会が収入を得て運営を続けるためには大事でしょうけれど。)

私は、「天の父のみこころにかなう」ことの方がずっと大事だと思っています。そして、それは、「聖書にこう書いてあるからこうだ」とか「書いてあることをすべて文字通り信じないといけない」みたいな、現代版の律法主義の実践ではないと考えています。

今も、世のキリスト信者の中には、誰それが「信者」か「信者でない」かを区別したがる人がいます。しかし、それぞれ別な宗教ではないかと思えるほどキリスト教諸派には幅があるし、キリスト教を信じると言っても、いつの時代のどの派のキリスト教をどのように信じるのか、その立場は数えきれないように思えます。ですから、その人が「信者」か「信者でない」か、他者がどうこう言えることではないし、場合によっては、その人自身もはっきりと答えられないかもしれません。

特定のキリスト教の立場から見て「信者」か「信者でない」かなど、さほど重要なことでないように思えます。人生は決断の連続ですが、ひとたび聖書の教えに触れた人間が、決断の状況に立ったとき、どう決断するのか、それが問われるのではないかと思います。

(伊藤一滴)


(2022-11-30 掲載分に補足して再掲。その前に書いたこととの重複箇所もありますが、今も考えが変わらないのでまた同じことを書きました。)


グーグルをお使いの場合、次の検索でほぼ確実に私の書いたものが表示されます。

ジネント山里記 site:ic-blog.jp(検索)

(スポンサーの広告が出てくることがありますが、私の見解とは一切関係ありません。)

過去に書いたものは、こちらからも読めます。
http://yamazato.ic-blog.jp/home/archives.html

聖書、信仰、天国、永遠の命(再掲)


小学生だった1973年に聖書に出会い、それから50年以上、聖書を読んでます。
10代の半ばまでは、聖書に書いてあることの多くは史実または事実が反映して書かれた記述だと思っていました。でも、読み進めるうちに聖書は矛盾だらけで、事実に反する記述も多いと気づきました。
それでも、私は聖書の中に普遍的なメッセージを感じてますし、イエスというお方の言葉やわざにとても魅力を感じています。

私は今まで一度も山が動いて海に入るのを見たことがありません。つまり、からし種ほどの信仰を持つ人さえ私の周りに誰もいなかった、ということです。
「信仰がなければ救われない」なら、いったい誰が救われるのでしょう。

私は、使徒行伝の時代の人たちとは違い、「人にできないことは神にもできない」と思うようになりました。でもそれは、「神のみこころは人の手によってなされてゆく」とも言えます。それは「信者の手によって」と言うより「神のみこころにかなう人たちの手によって」だと思います。

私は、神に従わないクリスチャンたちより、神のみこころにかなう非クリスチャンの方がよっぽど神様に近い所にいると思うようになりました。でも教会の側からは、その人が神様の近くにいるかどうかではなく、ちゃんと教会に所属して牧師に素直に従い維持費や献金をきちんと納入してくれる方が、運営上、いいんです。神のみこころにかなう非クリスチャンが教会の外にどれだけいたって教会の収入になりませんから。


天国とか神の国とかを、死んでからそこに行ける楽園みたいに思っている人が多いようです。たしかにそういう考えもあるんですが、死んでからそこに行きたいから信仰するなら、それは取引きですね。あるいは、天国という御利益(ごりやく)を求めて信じる御利益信仰です。イエスはそのような取引きや御利益を教えたんでしょうか?

キリスト教の中には死後の世界などないという考えもあります。天国(神の国)はこの地上の現実の中にあるという考えです。
そう考えれば、永遠の命というのは、永遠に変わらない普遍の理念を信じて生きた生き方だとも言えます。たとえば、紛争地域で何が起きているのかの取材を続けたジャーナリストの後藤健二さんとか、アフガニスタンの住民に尽くした医師の中村哲さんとか、普遍の理念に殉じたとも言えるわけで、死後もその理念は残るという意味で、永遠の命を得た人だと言えるのです。

大事なのは自分の死後の幸福を願うより、みんなの幸せを願いながら普遍の理念に向かうことではないのかと思うようになりました。だから、死後の世界があってもなくても、どっちでもいいんです。私は、「自分が死後に救われて天国に行くこと」が最も大切な教えだとは思っていません。


みんなが平和で幸福な未来に向かって進んでゆくことができる世界、これが理想です。すぐには実現しなくとも、本当はこれが理想なのだという思いを持ち続け、掲げていきたいです。


フランシスコ・ザビエルに帰せられる次の祈りがとても好きなので、また引用します。

「十字架上のキリストへの祈り」

主よ 私があなたを愛するのはあなたが天国を約束されたからではありません。
あなたにそむかないのは地獄が恐ろしいからではありません。
主よ 私を引きつけるのはあなたご自身です。
私の心を揺り動かすのは十字架につけられ、侮辱をお受けになったあなたのお姿です。
あなたの傷ついたお体です。あなたの受けられたはずかしめと死です。
そうです 主よ。
あなたの愛が私を揺り動かすのです。
ですから たとえ天国がなくても主よ 私はあなたを愛します。
たとえ地獄がなくても私はあなたを畏れます。
あなたが何もくださらなくても私はあなたを愛します。
望みが何もかなわなくても私の愛は変わることはありません。

(伊藤一滴)

(2023-12-25掲載、一部語句を改め再掲)


グーグルをお使いの場合、次の検索でほぼ確実に私の書いたものが表示されます。

ジネント山里記 site:ic-blog.jp(検索)

(スポンサーの広告が出てくることがありますが、私の見解とは一切関係ありません。)

過去に書いたものは、こちらからも読めます。
http://yamazato.ic-blog.jp/home/archives.html

山上徹也さんに、可能な限り寛大な判決を

以前書いた文章を書き改めてここに載せます。


山上徹也さんが安倍晋三氏を殺害した事件の裁判が始まりました。

本人も語り出し、山上さんの境遇はかなりわかってきています。


以前から減刑署名を呼びかけておられる斉藤恵氏の見解を引用します。


引用開始

伝えたい点は次の2点です

・過酷な生育歴を鑑みての温情

父親の自殺、母親の教団への1億円超えの寄付による破産、難病の兄の自殺

母親は、統一教会(現世界平和統一家庭連合)に入信する前にも別の宗教団体にのめり込み、ほぼ育児放棄、父親と母親の間にはその事で喧嘩が絶えず、その後父親は自殺

母親は統一教会に入信すると、まだ幼い子供達を残して度々韓国に行き、その間、子供達は食べるものすらない状態であった

金銭的な苦悩だけでなく、母親の信仰により、幼い頃からその影響下で育ち、精神的な苦悩をもよぎなくされた

・本人が非常に真面目、努力家であり、更生の余地のある人間である事

そのような苦悩を抱えながらも、学生時代は勉学に勤しみ、社会人になってからも様々な資格を取得するなど、真っ当に生きようと努力していた

今回の事件以降、SNSでは沢山の統一教会(現世界平和統一家庭連合)をはじめとする新興宗教の二世による苦悩の実態が明らかにされました。

親の信仰によって、生活も精神も追い詰められる人が非常に多いです。

このような状況で物心ついた時から生活していた山上徹也容疑者(現被告、引用者)に、どうか寛大な見解をお願いします

引用終了

出典:「山上徹也容疑者の減刑を求める署名」

https://www.change.org/p/%E5%B1%B1%E4%B8%8A%E5%BE%B9%E4%B9%9F%E5%AE%B9%E7%96%91%E8%80%85%E3%81%AE%E6%B8%9B%E5%88%91%E3%82%92%E6%B1%82%E3%82%81%E3%82%8B%E7%BD%B2%E5%90%8D

山上徹也さんのやったことは殺人です。計画的殺人です。どんな理由があれ、是認することはできません。法の裁きを受けるべきです。山上さんを英雄視してはいけません。決して見習ってはいけません。

しかし、山上徹也さんの境遇と今後の可能性をふまえ、可能な限り寛大な刑を望みます。

過去には、尊属殺人重罰規定の見直しになった判例もあります。あのときは、殺人罪に執行猶予がつきました。


そもそも、なぜ人を殺してはいけないのでしょう。
いろいろ見解もあるのでしょうが、単純に考えれば、社会の秩序を守るため、自分も含めてみんなが安心して暮らすために、人を殺してはいけない、ということではないのですか。
戦争や死刑のような例外もありますが、それはその国が、戦争や死刑によって社会の秩序を守ることになると考えるからではないのですか(実際にそうなっているかどうかは疑問もありますが)。

社会の秩序を守るために人を殺してはいけない、と考えるなら、社会の秩序を守らないのは誰か、を問うべきでしょう。社会の秩序を守らないできたのは、統一協会、安倍晋三氏、およびその仲間たちではありませんか。本当ならこうした人たちは罪に問われ、刑罰を受けるべきだったのです。
警察や検察が忖度せずにちゃんと機能していたなら、モリカケ桜その他で安倍晋三氏は失脚し、殺されずに済んだことでしょう。

法の規定が有効に機能し、違法行為が裁かれる社会なら、悪に対して暴力で報いなくても済むのです。法が曲げられ、「民主的な手段、平和的な手段では、世の中は変わらない」と感じられる社会で、悪(と思える人や団体)に対する暴力行為が起こるのです。
天に代わって悪を討つような暴力(つまり天罰の代行)をなくすためには、忖度なしに法の規定が有効に機能する日本を取り戻すべきなのです。

統一協会や自民党安倍派の違法行為・不当行為の数々は徹底的に暴くべきです。
もう安倍晋三氏はいないのだから、官庁もマスコミも、忖度はいりません。


山上徹也さんには可能な限り寛大な刑を望みます。

寛大な刑のために、弁護団はもちろん、各方面からの幅広い支援を望みます。

(伊藤一滴)

付記

殺されていい人などいません。
あるクリスチャンが私に言いました。
「山上徹也さんの最大の罪は、安倍晋三さんが自分の過ちを認めて改心する機会を奪ったことです」と。
安倍晋三さんだって、生きていれば、いつかは自分の過ちに気づいたかもしれません。
わかりませんけれど、可能性はゼロではなかったのです。
人には、死の寸前まで、悔い改めの機会があるのです。


山上徹也さん。
他の誰も巻き添えにしなかったとはいえ、あなたは安倍晋三氏の命を奪い、安倍氏が改心する機会を奪いました。そのことを深く省みた上で、刑に服し、社会復帰していただきたいのです。
あなたを支援したいと思う人がたくさんいます。
あなたは、見捨てられた人ではありません。

創作 あるクリスチャン青年の問い 「結婚したい人がいるんですが」(再掲)

私は長くプロテスタントの長老教会の牧師を務めてきた。
長老教会だから、教会には信者から選ばれた長老たちがいる。知らない人が長老と聞くと高齢者をイメージするようだが、これは信徒の役職名であり、中には若い長老もいる。
私が牧会する教会の長老の一人は二十代の青年だ。彼は小さい時から教会に通い、熱心に聖書を学んできた。キリスト教系の大学を卒業し、今、母校の大学の付属高校の教員をしている。彼は知的で人格も優れ、みんなから好かれており、長老の一人に選ばれた。これまで誠実に教会に奉仕してきた。

ある時、彼が、「折り入ってご相談したいことがあるのですが」と言うので、牧師館に来てもらって二人だけで話をした。

「牧師先生、実は、僕、結婚したい人がいるんですが」
と彼は言った。
「その方は信者さんですか?」
と私は聞いた。信者以外と結婚してはいけないわけではないが、価値観がまるで違う人と結婚して破綻した例をいくつも知っていたからだ。
「はい、信者です。教会は違いますが」
と彼は言った。
「それはおめでとう。嬉しいです。キリスト教を信じて価値観を共有できる人とならうまくやってゆけるでしょう。ところで、その女性はどちらの教会の方ですか?」
「〇〇教会の人ですが・・・。先生、実は、相手は女性ではなく、男性です。今まで言わずにきましたが、僕は、どうしても女性を恋愛の対象として見ることができません。以前から僕の恋愛の対象は男性でした。これは、僕が持って生まれた資質なのだろうと思います。非難する人もいるでしょう。でも、生まれつきのことで非難されるのは、生まれつきの盲人が非難されるのと同じだと思います。今の日本では、法律上、同性同士の結婚が認められないので、事実婚のような形になるのでしょう。この教会で結婚式を挙げることは可能でしょうか? 祝福していただけますか? それとも、僕は、聖書に反する罪を犯したとして、教会から出ないといけないのでしょうか?」
予想外の言葉に私は驚き、返事に困った。以前からこの青年に接してきたが、彼のそうした性的な志向にはまったく気づいていなかった。答えなければならない。真剣に問う彼に答えるのは、牧師としての義務だ。だが、どう答えればいいのだろう。何か言わなければと思いながら、焦った。
「それは・・・。性的マイノリティーに関して、私も、どう答えればいいのか、すぐに言葉が出てきません。少し、時間をください」
やっとのことで、そう言った。私の声はうわずり、手が震えていた。そんな私とは逆に、彼は落ち着いていた。覚悟を決めて来たのだろう。落ち着いた声でこう言った。
「僕は小さい時から両親に連れられてこの教会に通ってきました。聖書は神様の御言葉であり、万物を創造された神様がおられることも、イエス様が救い主なのも、聖霊の働きがあることも、みな、僕にとって水や空気があるのと同じように自然なことでした。だから、教会で教えられたことを疑ったことはありません。先生はいつも、『イエス様は、弱い側、苦しむ側の味方です』って、おっしゃいますよね。だから先生を信頼して、まだ親にも言っていないことを打ち明けました。僕はまさに、苦しむ側なんです。イエス様は、そんな僕の味方ではないのでしょうか?」
しばらく沈黙が続いた後、私は彼に聞いた。
「ところで、相手の方の教会の反応はどうなのでしょう?」
性的マイノリティーついてどう考えるのか、教会により、牧師により、見解が分かれている。百八十度違うことを言う人もいる。
「詳しくは聞いていませんが、〇〇教会の〇〇先生は『LGBTQプラス 教会はどう対応すべきか』という本をお書きになっています。たぶん、ご理解いただけるのではないかと思います」
「ああ、その本でしたら、私も読みました。全面的に賛成というわけではありませんが、学ぶべき点の多い本でした。〇〇先生はリベラル派の論客みたいに言われていて、保守派の中には非難する人もいますが、私は、苦しむ人たちに寄り添おうとする先生だと思いました」
また、しばらく沈黙が続いた。私は、神学校時代から今日まで、性的マイノリティーのことをどう考えてきたのだろう。彼に正直に伝えるべきだ。私は彼を見ながら言った。
「実は、最近までほとんどの教会は、性的マイノリティーなど教会内に存在しないかのような扱いで、カミングアウトした人を罪びとのように見なしたり、それは病気だから治療を受けて治すべきだと忠告したりしてきたのです。今でも、当教会だけでなく、キリスト教界全体として、性的マイノリティーにどう対応すべきか、統一の見解がありません。私が神学校で学んでいたのは一九八〇年代でしたが、当時、性的マイノリティーに関する授業はまったくありませんでした。当時は世間一般、性的マイノリティーに無理解な人が多く、同性愛者を笑い者にするようなテレビ番組や漫画もありました。外国人差別や部落差別は当時も非難されていましたが、性的マイノリティーに対する差別を非難する声は多くはありませんでした。エイズという病気の広がりが問題になっていましたが、薬物中毒者や同性愛者の病気と見なされ、この病気さえ嘲笑されることがありました。マザー・テレサが「エイズ患者に愛の手を」と呼びかけたとき、これはうちの教会員ではありませんが、「エイズなんて不道徳の結果なんだから、患者は自業自得でしょ。マザー・テレサは不道徳の味方なの?」と言っていたクリスチャンがいました。これもうちの教派ではありませんが、牧師の中にさえ「エイズは人類の不道徳に対する神の裁きです」と言う人がいました。他教派であっても、そこまで言うクリスチャンがいることに、私は違和感を覚えました。しかし、違和感を覚えながらも、私は抗議の声をあげませんでしたし、性的マイノリティーの立場について深く考えることもしませんでした。私はこうした問題を避けたまま牧師になったのです。見て見ぬふりをすることで差別を是認し、差別に加担してきたと言われても仕方ありません。時代の状況とはいえ、私の怠りです。お詫びしなければなりません。これから、どう考え、どう対応すればよいのか、福音の光に照らし、祈りながら判断したいと思います。これまで私が言い続けてきた通り、イエス様は、常に、弱い側、苦しむ側の味方です。クリスチャンの中には、今も性的マイノリティーを罪びとのように見なして断罪する人たちもいますが、それは、取税人や遊女を罪びとだと断罪したパリサイ人や律法学者らと同様の発想だと思います。私は、そうした人たちには決してくみしません。イエス様の教えに従うならどうすべきなのか、よく考えたいのです。〇〇先生の『LGBTQプラス 教会はどう対応すべきか』も、もう一度じっくり読み直してみます。あなたがこれまで信仰を持って誠実に生きてきたのも、高校の教員として一生懸命仕事に励んでいるのも、教会のために頑張ってきたのも、私はよく知っています。あなたが持って生まれた性的な志向を非難などしませんし、教会から追放したりしませんから、安心してください。ただ、もう少し、考える時間がほしいのです」

(伊藤一滴)


性的マイノリティーの方々の苦しみについて、いろいろと話は聞いていますが、上記は創作です。実在の団体や人物とは一切関係ありません。

私、一滴は牧師ではありませんし、神学校で学んだ経験もありません。聞いた話からの想像です。
「教会の長老を務めるくらい優秀な青年」ということで長老教会としましたが、特定の教会のことではありません。実際の長老派系には幅があり、内部にはさまざまな見解があるようです。
〇〇先生の『LGBTQプラス 教会はどう対応すべきか』も、架空の本です。どなたか、こうした本を書いてくださればいいのに・・・。

2024.9.21付「キリスト新聞」の同性愛に関する記事に触発されて、思うことが湧きあがり、上記の話を一気に書きました。プロテスタント教会内の一部の心ある方々が発した問いへの、私なりのオマージュでもあります。
掲載後もいろいろ思いが湧いてきて、何度か推敲しました。

性的マイノリティーについての議論が深まることで人権意識が高まってくれればいいのですが、議論する人の中にはかなり差別的なことを言う人もおり、議論が当事者をより苦しめたりすることがないよう願っています。

(2024.9.26掲載、そのまま再掲)


グーグルをお使いの場合、次の検索でほぼ確実に私の書いたものが表示されます。

ジネント山里記 site:ic-blog.jp(検索)

(スポンサーの広告が出てくることがありますが、私の見解とは一切関係ありません。)

過去に書いたものは、こちらからも読めます。
http://yamazato.ic-blog.jp/home/archives.html

高市さんの発言は、経済的損失だけじゃない

11月7日の衆議院予算委員会で、高市早苗首相は、台湾有事は日本の「存立危機事態」になり得るという意味の答弁してしまいました。

これについて何度か私の見解を書きましたけど、これ、経済的損失だけじゃないんです。あの発言は、外交上も、防衛上も、我が国にとって大損失なんです。


高市首相は「もし中国軍が台湾に対して武力行使をしたならば、日本が攻撃を受けていなくても自衛隊が中国軍を攻撃することは可能」と言ったのと同じなんです。

高市さんの頭の中では、「もし中国軍が台湾に対して武力行使をしたならば、米軍の艦隊が出動することになるだろう。米艦が中国軍の攻撃を受けた場合は、日本が攻撃を受けていなくても自衛隊が中国軍を攻撃することは可能」という意味だったのでしょう。
それにしても、まず、言葉足らずでした。

それに、「米軍の艦隊が出動する」と断定できないんです。米軍の出動は勝手な仮定です。
アメリカにしてみれば、「我が軍の行動を勝手に仮定するな!」ってとこでしょうね。トランプ氏はアメリカファーストですし、中国との戦争なんて望んでないだろうし。
実際アメリカ政府は、高市発言をフォローするようなことを何も言ってません。トランプ氏は電話で高市氏に注意した可能性もあります(日本は認めていませんが)。

高市さんはアメリカの事前の了解がないままに、勢いで勇ましいことを言っちゃったんです。
日本の単純右派は、よく言ってくれたって喜んだかもしれないけれど、いくらなんでも、中国との外交や経済上の問題だけじゃなくて、日米同盟上も、まずい発言だったんです。
アメリカ政府は、口にはしなくとも、内心ムッとしてるかもしれません。


歴代内閣が、台湾有事の際に日本がどう動くかあいまいにしてきたのは、中国を恐れていたとか中国に媚びていとかじゃなくて、そのあいまいさこそが抑止力だったからです。
これまで、せっかくその方針を守ってきたのに、米軍の艦隊が出動するという仮定で、そうなったときのこっちの手の内を明かしてどうするんですか。

発言の撤回はできませんよ。それは法的に可能な自衛隊の行動を規制することになってしまいますから。(本当に自衛隊が動くかどうかはともかく、動くかもしれないというのが抑止力なんです。)

高市さんの勇み足で、外務省はもちろん、防衛省の幹部らも困っていることでしょう。


中国をどう思うとか、アメリカをどう思うとか、高市早苗さんの考えや政治姿勢をどう思うとか、そういう話じゃなくて、あの発言は、客観的に言って、経済上、外交上、防衛上・・・、我が国にとって大損失なんです。

それって、総理大臣としてはもちろん、政治家として致命的じゃないですか。


高市早苗さん、あなたに愛国心があるなら、一刻も早く内閣総理大臣を辞任してください。
それが一番の国益です。

(伊藤一滴)