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創作・新約聖書の物語(クリスマス編)

ヨセフさんだね。あんた、ナザレのヨセフさんだね。前に一緒に働いた俺だよ。思い出してくれたか。そっちは奥さんかい。マリアさんていうの。マリアさん、おめでたなのか。そりゃあ旅はきついだろう。それにしてもヨセフさん、あんたに会うのは久しぶりだな。ガリラヤ湖の近くで一緒に大工仕事をしてた頃がなつかしいよ。あれからいろいろあってな、今、俺は一家でベツレヘムで暮らしてる。
あんたもベツレヘムで登録か。まったくお上のやることはよぉ。どうせ人頭税の徴収や強制徴用のリスト作りなんだろうけどよ、居住地での登録ならともかく先祖の出身地で登録しろって、お上は何を考えてんだ。手間がかかるだけで、旅費も出ねえし、みんな自己負担じゃねえか。おかげでユダヤ中が大混乱だ。
で、あんた、今晩どこに泊まるんだい。えっ、泊まる所が探せないって。そうか、宿屋はどこも満員か。そりゃあ、この混雑じゃな。よかったら俺んちに来るか。俺、大工と兼業で民宿もやってんだ。俺んちも満員だけど、土間でもよければ寝床の用意ぐらいはできるぞ。馬と一緒に泊まったって野宿よりはましだろう。実はな、大工仕事より民宿のほうが稼ぎがいいんだ。人口調査の登録でベツレヘムにけっこう人が来て、うちにも泊まってくれるから、いい稼ぎになってる。なんか、ローマ帝国にぶら下がって食ってるみたいで、胸くそ悪いけどよ。


おーい、俺だ、帰ったぞ。昔の仕事仲間に会ったんだ。ヨセフさんていってな、奥さんと一緒だ。今晩うちに泊まってもらおうと思って・・・。
何っ、奥さんが陣痛。産気づいてるって。そりゃあ大変だ。
おーい、かかあ。すぐにお湯を沸かしてくれ、たくさんお湯がいる。それと、たらいと布の用意だ。急いでくれ。俺は産婆さんを呼びに行ってくる。すぐ連れて来るからな。


はっ、はっ、はっ。すまん、ほうぼう探したけど、産婆さんが見つかんなくて。ちょっと水を飲んだら隣町まで走って探してくるから・・・えっ、もう生まれたって。男の子。初産にしちゃずいぶん早いな。赤ちゃんもマリアさんも元気なんだな。じゃあ、あとはかかあに任せよう。うちのかかあは何人も子を産んでるから、勝手がよくわかってる。俺たち男衆の出る幕じゃないよ。そうだ、赤ちゃんの寝床がいるな。何かないかな。そうそう、俺が作ったかいばおけがある。うちの家畜用の予備に作っておいたんだ。俺も大工だからな、作りはいいぞ。まだ使ってないからな。汚くなんかないぞ、新品だ。今持ってくる。かいばおけに布を敷いてと。
この子ったら、生まれたばかりで凛とした顔をしてるね。きっと大物になるぞ。
あんたら、しばらくうちに泊まるといい。ひとまず俺たち夫婦の部屋を貸すから。ああ、気にすんな。俺もかかあも土間でいいから。奥さんを休ませてやってくれ。そのうち客室もあくだろう。


いやー、びっくりしたなあ。羊飼いたちが来たかと思ったら今度は異国の博士かよ。一体この子は何者なんだ。東方から来たとかいうあの博士たち、拝むみたいに挨拶して、何か、すげー宝物を置いて行ったな。とんでもない値打ちもんかもよ。こりゃあ、すげえな。一生の記念になるな。えっ、あの博士たちって、異邦人で、異教徒で、しかも星占い師だって。そうか、ヨセフさん、あんたはユダヤの民がそういう人から贈り物をもらっていいのか悩んでんのか。あんた、真面目だからな。でも考えてみろよ。俺たち庶民が律法を隅々まで守ろうとしたら、生活できなくなっちまうぞ。それに、今さらどうやって返しに行くんだ。素直にもらっておいたらいい。何かの役に立つかもよ。


大変だ、ヨセフさん、聞いたか。あのヘロデの野郎が軍隊を送ってこの辺の男の子を皆殺しにしてるらしい。特に二歳以下の子が狙われてるみたいだ。あの野郎、畜生め。この子も危ない。すぐ逃げたほうがいい。
何、夢でエジプトに逃げるようにお告げがあったって。エジプトかぁ。こっからだとかなりの距離だな。どうしてもエジプトに行くんなら、うちのラクダを使うといい。テントや衣類もうちのをやるから使ってくれ。それと、飲み水の用意だ。食料もいる。食料は途中で買うか。お金がいるな。そうだ、例の博士たちがくれたお宝がある。お金にしたらどうだ。大事なものでもしょうがない。今は命がかかってる。俺に渡してくれるか。今からマーケットに行って、お宝をお金にしてくるからな。すぐ戻るからな。


けっこうな金になったぞ。やっぱり博士のお宝はかなりの値打ちもんだった。これで旅費と当面の滞在費は間に合いそうだ。ラクダと旅の荷物を用意しないと。夜が明けたらすぐに出発しよう。シナイ半島の近くまで俺も行く。エジプトに行く隊商に頼んで合流させてもらおう。あんたらだけでシナイ半島を越えるのはきつすぎるからな。下手したら命が危ないぞ。


ふう、やっとここまで来た。こっから先はシナイ半島だ。隊商に同行できることになって本当によかった。お頭には俺からもよくお礼を言っておくよ。
それにしても、ヘロデに殺されちまった男の子たちや家族があんまり気の毒だ。なんにも悪くないのに。それに、あんたみたいな真面目な大工がよ、なんでこんな目に逢うんだろう。俺には神様のお考えがわからない。
ヨセフさん、マリアさん、達者でな。それとこの子、イエス君っていうのか。君はきっと将来の大物だ。元気で大きくなってくれよ。
噂じゃな、ヘロデはもう長くないらしい。だから疑心暗鬼の塊みてえだ。ヘロデの時代が終わったら戻ってくればいい。戻ったら俺んとこに寄って無事を知らせてくれよ。
じゃあな、達者でな。あんたらの無事を祈ってるからな。

(伊藤一滴)

十字架で死んだイエスはどこへ行ったのか

1(アンドレア・ダ・フィレンツェ「キリストの陰府下り」)

「十字架で死んだイエスはどこへ行ったのですか?」と聞かれたら、多くのクリスチャンは、「陰府に下りました。そして3日目に復活なさったのです」と答えるでしょう。

使徒信条にこうあります。

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。
聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。
アーメン
(※1)

使徒信条には、はっきり、「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり」とあります。


でも、ルカによる福音書にはこう書いてあるんです。

23:39十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。 23:40もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。 23:41お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。 23:42そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。 23:43イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。(口語訳)(※2)

これだと、イエスはその日に死んで、その日のうちに、悔い改めた犯罪人と共にパラダイス(=楽園)に行ったことになります。陰府ではなくて楽園? それとも、楽園は陰府の中にある?


ペトロの手紙一(=ペテロ第一の手紙)にこうあります。

3:18キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。 3:19こうして、彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた。 3:20これらの霊というのは、むかしノアの箱舟が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者どものことである。その箱舟に乗り込み、水を経て救われたのは、わずかに八名だけであった。 3:21この水はバプテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである。それは、イエス・キリストの復活によるのであって、からだの汚れを除くことではなく、明らかな良心を神に願い求めることである。 3:22キリストは天に上って神の右に座し、天使たちともろもろの権威、権力を従えておられるのである。(口語訳)(※3)

これだと、イエスは捕らわれている霊たちの所へ下って行ったことになります。
捕らわれている霊たちの所と陰府は別の場所だと言う人もいるのですが、使徒信条と整合させれば、捕らわれている霊たちは陰府にいたと考えるのが自然です。


いったい、十字架で死んだイエスは復活するまでどこに行っていたのでしょう?
数日であちこちをめぐったのでしょうか?


以下は聖書学の話ではありませんが、聖書の記述と使徒信条から、こういう解釈もできるという仮定の話です。
私(一滴)はそう信じているという話ではなく、こういう解釈もできるという仮定の話ですから、そのつもりで読んでください。


死後の世界(=陰府、ハデス)は、死者の行く広大な世界である。
その一部はリンボ(周辺・端)とも呼ばれ、辺獄とも訳されるが、この訳語は適切ではない。リンボ界は、ダンテが想像していたような寂しい場所ではなく、獄でもない。その中には至福の世界がある。悔い改めた犯罪人はイエスと共に陰府の中のリンボ界に行った。

死後の世界には捕らわれの霊たちもいた。それはノアの箱舟の時代に従わなかった霊たちに代表される霊たちで、地上で神に背いた者たちだった。イエスはこの霊たちの所に行って宣言し、彼らを解放した。囚われていたというだけで、苦しみを受けていたわけではない。解放の日を待っていたのだ。
解放されてどうなったのか? それはわからないが、神の国の実現の日を楽園で待っているのかもしれない。

イエスは十字架上で悔い改めた犯罪人を楽園に導き、囚われの霊たちを解放した後、地上に復活し、人々の前にあらわれた。
地上の人々に語った後、天に昇り、全能の父の右に座し、天使たちともろもろの権威、権力を従えておられる。やがて、生きている者と既に死んだ者を審くために再臨される。

つじつま合わせをすれば、このような説明も可能なのです。

リンボ界について聖書にはっきり書かれているわけではありませんが、聖書の言葉と使徒信条を総合的に考えれば、リンボ界は存在し、かつ、そこには至福の世界がある、という仮定も成り立つのです。(※4)

神に背いて死んだ人たちは捕らわれの霊となっても、イエスの宣言を受けて解放される。東方教会(正教会)には古くから「キリストの陰府への降下」(キリストの地獄下り)という考えがありました。
イエスはノアの箱舟の時代の霊さえも解放してくださったのだから、イエスは今も、これからも、捕らわれの霊たちを解放してくださる、と考えることもできます。
積極的に神に背いたわけではないが、キリスト教に出会うチャンスがなかった人たちや種々の理由でキリスト教信仰に至らなかった人たちも、リンボ界の中の楽園、至福の世界で時を待っている、と考えることも可能です。

(若い頃の私は、「最終的には、人はキリスト教信仰の有無にかかわらず、ほとんどみんな救われる」と思っていました。ただし、自称「福音派」の原理主義者やカルトだけは例外で、彼らだけは救われようがないと思っていたのです。彼らは、陰府に来てくださるイエス様さえも拒絶して追い返すような「正しい聖書信仰」なのだろう、そうやって自分から地獄に向かうのだろう。彼らだけは、どう頑張っても救われようがない」と思っていたのです。)
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2021/11/post-5956.html


理屈のつけようで何とでも言えます。

実際、「神学論争」という言葉は、「理屈のつけようで何とでも言える」という意味で使われることもあるのです。

(伊藤一滴)


※1
ちなみに、「・・・生ける者と死にたる者とを審きたまわん」なのか「・・・生ける者と死ねる者とを審きたまわん」なのか、意味は同じでもこれで教派の違いが分かったりするんです。まあ、どっちでもいいんですが。私は最初に「死にたる者」と覚えたので、ついそっちが出てきてしまいます。

※2
口語訳聖書の「あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、」という訳はネストレに従わずに異本の読みを採用しています。理由はわかりません。この訳だと、「あなたが再臨なさるときには、わたしを思い出してください」という意味に取れます。新改訳は「あなたの御国の位にお着きになるときには、」と、ネストレの通りに訳しています。こっちだと「天に昇って位についたときには、わたしを思い出してください」という意味になります。磔(はりつけ)にされた犯罪人が、イエスはやがて再臨されるなんて思ったんでしょうか? それ以前に、イエスは御国の位にお着きになるなんて思ったんでしょうか?
どちらにしても、「イエスは復活して昇天した、やがて再臨する」という教義の成立後、犯罪人の1人が語ったという形にして創作された話だと考えられます。つまり、どちらにしても、事実の記録ではないのです。
オリジナルは、ネストレが採用した読みなのか、日本の口語訳聖書が使った読みなのか。わかりませんけれど、どちらであれ、ルカの創作か、ルカ以前の創作です。マルコとマタイは犯罪人の1人が悔い改めたという話を知りません。だから、食い違っています。 

※3
もちろん、十二使徒のペトロが書いた手紙ではありません。後代に何者かが書いた文書で、いきさつはわかりませんが、ペトロの作とされて正典に入りました。
今日、まともな聖書学者で、1ペトロ書や2ペトロ書を使徒ペトロが書いたと言う人はまずいません。

※4
精選版 日本国語大辞典「リンボ」の解説
〘名〙 (limbo) キリシタン用語。
① 洗礼を受けないで死んだ子ども、異教徒、キリスト教に接する機会のなかった人などの霊魂の行く所。 地獄と天国との間にあるという。
② 世の始めからの善人たちの霊魂が住んでいた所。

「リンボ界なんて、聖書のどこにも出て来ない。間違った異端の説だ」なんて言えないんです。
リンボ界は、公認された教義でなくとも、神学上の仮説にあります。多数意見ではありませんが、リンボ界には至福の場があるというのも、神学的には成り立つ仮説です。
聖書のどこにも出て来ないことを言うのは異端だと言うのなら、使徒信条だってそのままは聖書に出て来ないし、三位一体という言葉も聖書に出てきません。
聖書に出て来ない使徒信条や三位一体論の主張は「間違った異端の説」なのですか?

「あなたはリンボ界を信じる異端の信者だ」なんて言わないでくださいよ。
だいたい、私はこう信じているという話ではなく、理屈のつけようでこういう解釈もできるという「仮定の話」なのですから。

『「神様」のいる家で育ちました』

Photo

菊池真理子『「神様」のいる家で育ちました~宗教2世な私たち~』(文藝春秋)を読んでいます。電子版もありますが紙の本で読んでいます。
漫画です。内容は、かなり、シリアスです。考えさせられます。

それぞれの話を、紙でじっくり読みたい作品です。


宗教団体の名前は出てきませんが、常識的に考えて、次の通りです。

第1話 ものみの塔(エホバの証人)
第2話 崇教眞光
第3話 統一協会(統一教会)
第4話 プロテスタントの一派
第5話 幸福の科学
第6話 真如苑
第7話 創価学会

これら7つの宗教団体は、それぞれ、「私たちは正しい教えを伝えているのです」って言いそうです。


文藝春秋のサイトにこうあります。

引用開始

7人の“宗教2世”の半生を描き、SNSで話題になったノンフィクションコミックが、連載中断を経て文藝春秋から刊行!

2022年10月6日に、7人の“宗教2世”の半生を描いた菊池真理子さんのノンフィクションコミック『「神様」のいる家で育ちました ~宗教2世な私たち~』が刊行されます。

『「神様」のいる家で育ちました ~宗教2世な私たち~』は、著者含む、7人の宗教2世たちの半生をマンガ化した作品です。

 集英社のウェブメディアで連載していた本作は、編集部の判断により連載が中断され、削除されていましたが、作者の元に寄せられた「終わらせないで」という声に支えられ、10月6日に単行本として発売されます。連載中に発表された原稿に加えて、未発表作、描き下ろし計45ページを収録します。

引用終了

https://books.bunshun.jp/sp/kamisamanoiruie

集英社って名前まで出しちゃった。
インターネットの「よみタイ」で連載中、宗教団体から抗議され、その話だけでなくそれ以前の作品も非公開になったんです。

よみタイ編集部の見解はこちら
https://yomitai.jp/series/kamisama/

もし、明らかに不適切な内容だから集英社として取り下げるというのなら、なんで文藝春秋は出せるのですか?

・・・・・・・・・・

読み始めたばかりで、本書の問いに自分ならどう答えるのか、逡巡しています。


キリスト教系では、ものみの塔、プロテスタント教会、統一協会が出てきます。同列に並べるなと言われそうです。(モルモン教は入っていません。)

第4話は「福音派」かな、と思ったんですが、断定はできません。
どの教派でもありそうな話なので、別にどこでもいいのでしょうが、聖書オタク・キリスト教オタクの私は教派が気になります。

バプテスマ(洗礼)の場面が全身を水に沈める浸礼で描かれていますが、浸礼だからといって、それだけで教派の断定はできません。バプテスト派以外でも浸礼は行なわれています。
讃美歌という言葉が出てきます。一般に福音派は聖歌って言ってますけど。それに、洗礼式での歌、「讃美歌199番」(日本基督教団出版局「讃美歌」1954年版)ですね。他の歌集にも同じ歌があるのかな? 日本基督教団以外でも「讃美歌」1954年版を使ってきた教会があるので、これも、教派の断定になりません。
空中携挙みたいな話が出てくるんで、どうも、再臨信仰を強調する教派のようです。ホーリネス系? あるいは聖霊派?

(ちなみにパウロの「携挙」論は、神話的な世界観の中で生きていた古代人の神話的な表現です。古代人の神話的な表現から、それがいつ実現するのかなどと議論しても意味のない話です。)

特に気になったのはこのセリフです。

引用開始

福音を
信じた者は
天国に

信じない者は
地獄に

福音の存在を
知らん者は
死後に選ぶ時間を
与えられる・・・

じゃったら
私もそっちが
よかったわ

引用終了

キリストの地獄下り(陰府への降下)の話?
正教会?

プロテスタントですよね。
福音派が「福音の存在を知らん者は死後に選ぶ時間を与えられる」なんて言うのかな?
セカンドチャンス論の教会? だったら「讃美歌」1954年版を使うんだろうか?

ますます教派がわからなくなりました。

もしかして、複数の教会の話をミックスした話?

第4話の読後感は悪くないです。
最後は自己決定です。
文字の奴隷になれと聖書は教えていないし、教派により教会により牧師により言うことはバラバラ。
最後は自己決定です。それでいいんです。

7人の宗教2世の共通点は、親の信仰によって苦しめられた、ということです。
全員がそうだとは言いませんが、信仰を持つことによって、自分も家族も幸せから離れていくこともあるんです。
しかも2世に生まれれば、最初から宗教のレールが敷かれています。
野中花子氏の証しとも共通します。

(伊藤一滴)

誰に従うのか、何に従うのか・・・最終的には「自分」が、そこにいる。(再掲)

また、「metanoiaxの日記」から引用します。

引用開始

2017-07-19
誰に従うのか、何に従うのか・・・最終的には「自分」が、そこにいる。


クリスチャンの方は、神様に従いたい、イエス様の教えに従いたい、と思っていらっしゃる方が殆んどなのだと思います。


そう思った時・・・・
はて?・・神様は何とおっしゃているのだろう・・
イエス様は何を教えていらっしゃるのだろう・・・
と、思うのは自然な流れだと思います。


そして次に、・・・
イエス様が何をおっしゃているかを知るために、聖書を読む、司祭や牧師の方の話を聞く、聖書について書かれているものを読む・・・などの行動を、大抵の方が起こされるのだと思います。


しかし、聖書を読んでみても、いまいち書いている内容が良くわからない・・・
よし、それなら聖書に書いている事を解説してくれる司祭や牧師の方や聖書学者のお話を聞こう❗・・・・となります。

ところが!

司祭と牧師の方のおっしゃる事が違う・・・
牧師の方と、聖書学者のおっしゃる事が違う・・・
こちらの牧師の方と、あちらの牧師の方のおっしゃる事は180度違う・・・

いったい、どの解説が本当なの?
どの解説が、イエス様の教えなの?
・・・・と、なります。


「これがイエス様の教えです」
「聖書に書いてある事はこうです」

と、いうプロの方の教えが、おびただしい程にあるのが、今のキリスト教の現状です。
こちらのキリスト教と、あちらのキリスト教では、全く違う正反対の教えをしているのが、現在のキリスト教です。


こうなると、信徒側としては、自分で納得出来る教えを「自分」で、選ぶしかありません。

仕方ないから、自分でアレコレ調べて、納得がいく解説を探さなくてはなりません。

どの牧師の方も、聖書学者も、自分達の解釈が正しく、他の牧師の方や聖書学者の解釈は間違えている・・・と、おっしゃるのですから、「判断」は信徒がするしかありません。

「自分の考えでなく神様の教えを・・・」
「自分中心の判断でなく神様中心の価値基準を・」
と、言ったところで、その神様の教えが、これだけプロによって言われる事が違うならば、最終・・・

「自分の考え」で、納得のいく解説を選ぶ。
又、当たり前ですが・・・
「自分中心の判断」でしか納得するものは選べない・・と、いう事になります。


そうしなければ、イエス様の教えを知る事さえも出来ないのです。

私は、自分が腑におちた解説やお話の中の、
「イエス様の教え」にしか従いたくありません。

おそらく、皆様も、そうなのだと思います。


と、いうことは、つまり・・・
最終的には、

「自分の納得」
「自分の意志」
「自分の考え」

どこまでもいっても、そこには、

「自分」があるのだと思います。
(脅しがない限りは・・・)


そして、それは、とても素敵な事だと・・・
私は思っています。

引用終了

出典:http://metanoiax.hatenablog.com/entry/2017/07/19/022508

私、伊藤一滴も、何が正しいキリスト教なのか、ずっと考えてきました。
考えに考えて、たどり着いた結論を、このブログにも何度か書きました。

「自分が属する教派の教会の主張、および、それを受け入れた自分の見解」
これが正しいキリスト教です。
これに反する主張を「間違ったキリスト教」と言います。
逆から見たら逆に見えるだけです。ですから、世には無数の正しいキリスト教があります。

「自分が属する教派の教会の主張」も、自分でそれを選んだのなら「自分の見解」です。
「metanoiaxの日記」にあるとおり、「最終的には「自分」が、そこにいる」のです。
どうすることが神の御心にかなうのか、判断をせまられる自分が、決断する自分が、そこにいるのです。

(伊藤一滴)

2021-04-12 記 再掲

あれかこれかの二分法思考は危険 追記

福音派を名乗る人の中に「誰それは天国行き」とか「地獄行き」とか分けたがる人がいるのですが、それって、人間にできるのかって思いますね。
「あなたは、いつから神様になったの?」って、言いたくなります。

新約聖書に、穢れた人や罪びとが出てきますが、それは当時のユダヤ教の指導者が聖書(旧約聖書)の記述に基づいて判定したわけです。イエスは、当時、穢れた人・罪びとと判定されていた人たちに自分から接しています。
つまり、人間の判定と神様の判定はかなり違う、ということです。

自称「福音派」による救いと滅びの判別は、人間から見た判別です。神様の判別ではありません。「福音派」の牧師や信者が救いや滅びで人を脅しても、おびえることはありません。それはある種の人間の考えによる判別に過ぎないのですから。

聖書を素直に読むなら、神様は、弱い側、苦しんでいる側の人々と共におられます。
人を分けたがる、判別好きな人たちと共にいるのではありません。


イエスが厳しく非難したファリサイ派(パリサイ派)や律法学者と、「福音派」は実によく似ています。
細かいことにやたらこだわるわりに、大きなところが抜けているところまで似ています。

「福音派」って、つまり、現代のファリサイ派であり律法学者なんだろうって思います。
彼らは、とても真面目です、熱心です、本気で神様を信じてます、現代版のファリサイ派・律法学者ですから。

でも、どっちを向いて信じているんでしょう?
イエス・キリストはどっちにおられると思っているんでしょう?

目を覚ましてほしいと思います。
もともと真面目なのだから、目を覚ませば、きっと素晴らしい人になって、残りの人生を有意義に使うことができるでしょうに。

(伊藤一滴)