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「総理、あなたの判断はいつも正しかった」(菅義偉)

昨日(2022年9月27日)、日本武道館で安倍元総理の国葬が行なわれ、友人代表として菅義偉前総理が弔辞を述べた。

全文はこちら
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/164404?display=1

まあ、こんな独特のポエムみたいな弔辞に価値があるとは思えないが、その中にこうある。

「総理、あなたの判断はいつも正しかった」

えーっ!!!

ぶっ飛びそうになった。
モリカケ桜、すべて正しかった?
ロシアのプーチン氏にすり寄った外交も正しかった?
統一協会との関係も正しかった?
韓鶴子氏を称えるビデオメッセージを送ったのも、判断は正しかった?
???

スガさん、あなたって、相変わらず凄いことを言うね。
だったら、何で安倍さんは銃撃されて殺されたんだ?
銃撃されるくらい恨みを買ったからでしょ。
そんなにまで恨まれる事をしたのも、みな、正しかった?
凄い・・・。

これほど事実をねじ曲げて平気な人が前総理だったとは。
はあ。

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学術会議任命拒否は忘れません。
「あなた」を許さないのではなく、「あなたのやり方」を認めるわけにはいかないのです。認めたら、民主主義の否定です。

追記:安倍晋三氏が韓鶴子氏を讃えたビデオメッセージはこちら。


(伊藤一滴)

「安倍晋三は天国と地獄どちらに行きましたか?」

教えて!gooを見ていたら、
「安倍晋三は天国と地獄どちらに行きましたか?」
という質問を見つけました。(質問者:げにん 質問日時:2022/08/03)

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13076904.html

書いてある答えをいくつか引用します。
(引用です。私の考えを書いたものではありません。)


引用開始

回答者: 西BOO 回答日時:2022/08/03 20:32
統一教会では物足りずに、地獄で麻原とダチってんじゃない?


回答者: Tサイト 回答日時:2022/08/03 15:37
モリカケサクラ問題で地獄に落ちて、旧統一教会問題でそのまた地獄に落ちて、国葬電通問題でそのまた地獄に落ちるでしょう!


回答者: Umidojyou 回答日時:2022/08/03 15:11
四十九日後は、地獄に行くに決まっています。
閻魔大王の第一声。

「そなたは、赤木の名前に聞き覚えがないか?」


回答者: Epsilon03 回答日時:2022/08/03 14:35
地獄しかないでしょう。
そして、何枚有るか判らない舌を次から次へと今抜かれている最中でしょうね。

引用終了


私の考えですか?
一体この世の誰が、あの人は天国に行ったとか地獄に行ったとか断言することができるのでしょう。
死後の世界があるのかどうかさえ、誰も証明できないのですから。
もし仮に死後の世界があるのなら、死後の安倍晋三さんはどこでどうしているのでしょうね。私にもわかりませんけど。

(伊藤一滴)

健全な宗教と危険な宗教

たまたま読んだ AERA dot.に、青山学院大の宗教部長の塩谷直也氏(法学部教授)の見解が載っていたので紹介したい。
塩谷氏は統一協会(世界平和統一家庭連合、旧統一教会)について述べておられるのだが、統一協会のカルト性は、「福音派」やエホバの証人のカルト性と共通していると思いながら読んだ。

出典 https://dot.asahi.com/dot/2022091400082.html


「健全な宗教と危険な宗教との違いはどこにあるのでしょうか。」という問いに対して、

引用開始

塩谷さん:明らかな人権侵害をしているかどうか、だと考えます。最も分かりやすいのが「結婚の自由」の侵害でしょう。旧統一教会の合同結婚式など、その最たる例と言えます。また、正体を隠しての勧誘もそうです。宗教だと名乗らず、サークルやボランティア、今注目されているSDGsなど、入り口を魅力的に偽装して、興味を持って入ってきたターゲットと人間関係を作り上げていく。輪の中に入り込み、もう引くことができないという状況を作ってから宗教色を出し始め、取り込んでいきます。このやり方は明らかな自己決定権の侵害に当たり、詐欺と同じ行為です。

正体隠しの勧誘は、あってはなりません。健全な団体なら、最初に何者かを名乗りますよね。宗教に限らず、当たり前のコミュニケーションのあり方です。現代における宗教は、きっちり名乗ったうえで、勧誘したとしても相手の選択権を尊重し、さらに入退会を自由にする。そうした透明性が大切だと思います。もちろん、例えば友人に、「ちょっと話を聞いてよ」などと言って、後から自分の信仰について話す信者がいる可能性は否定できません。ただ、相手の選択権は奪ってはいけない。嫌だ、興味がない、とはっきり言える権利は守る。それが健全な宗教のあり方です。

引用終了


「神を信じることとマインドコントロールは何が違うのでしょうか。」という問いに対して、

引用開始

塩谷さん:健全な宗教は、その人の考える力を奪いません。むしろ、その力を与え、考えることを放棄させないのです。逆に、マインドコントロールなどによって考える力を奪うのが危険な宗教のやり口です。ここはまったく違います。キリスト教で言えば、健全なキリスト教は「聖書の神様はこう言っているけど、あなたはどう思いますか?」という問いかけがあります。神と対話し続ける、いわば「悩む力を与える」のです。

 一方、危険な宗教団体はどうですか。抱えている悩みや苦しみに対し、ご先祖の問題が今のあなたに影響を与えているなど根拠のない答えを示したり、世界の終わりがやってくると明言し、恐怖心でその人の心を支配しますよね。閉ざされた世界を作り、そこには「カリスマ」が必ずいて、「正しいことをしているのに迫害されている」などとありもしない話で被害者意識を作り上げる。そこにハマってしまうと、考える力を宗教に預けるようになり、その人の頭は、鋼鉄のヘルメットが覆っているような状態になってしまい、やがてそのヘルメットによって「組織の教え」以外の考えをすべて跳ね返し、否定するようになります。考える力を奪うということは、きわめて犯罪的な行為だと思います。

引用終了


「なぜ、カルトや危険な宗教にはまってしまう人が後を絶たないのでしょうか。」という問いに対して、

引用開始

塩谷さん:危険な宗教の特徴として、二分法を用いるという点があります。この世界を「正しい世界」と「間違った世界」だったり、「善人」と「悪人」に分ける。性格が真面目で「正しい人」や「善人」でありたい人、正解を求めてしまいがちな人は狙われやすい。カルトはその人の不安をいかにも理解したように装って安心させ、取り込んでいく。そして自分は「正しいことをやっている」と信じさせて、今度は勧誘する側に取り込む。そうなると彼ら・彼女らは一生懸命勧誘(伝道活動)を始めます。基本、真面目な人が多いからです。

引用終了


「旧統一教会は身を滅ぼすような高額の献金が問題視されています。ただ、寄付や献金は健全な宗教でもあります。どう違うのですか。」という問いに対して、

引用開始

塩谷さん:おっしゃるように、どの宗教も寄付や献金はあります。何が違うのかを分かりやすく例えると、大学の卒業生が大学に寄付をするとしたら、「その学校に通ったことへの感謝」「学校が好きだから」といった前向きな気持ちがあると思います。健全な宗教への寄付や献金も、それと似ています。

 一方で危険な宗教団体は、恐怖心や不安をあおってその人の考える力を奪い、その不安の解消のために多額の献金や物品の購入を迫ります。健全な宗教の愛は「無償の愛」ですが、危険な宗教は「見返りを求める愛」なのです。お金を出してこれを買えば、あなたも家族も、ご先祖も救われると。教えが本物なら、「押し売り」は必要ありません。偽物だから、なんだかんだと理屈をつけて押し売りするしかないのです。

引用終了


「これだけ世間から批判を受けて問題視されても、危険な宗教団体がなくならないのはなぜでしょうか。」という問いに対して、

引用開始

塩谷さん:被害者意識が植えつけられているので、批判を「迫害」ととらえ、結束がより強固になります。今の旧統一教会もそうした状況でしょう。(以下略)

引用終了


以下は私のコメント

だいぶ前の話だが、「福音派」が英会話教室と称して宗教と名乗らずに勧誘していたことがあった。私は英会話に関心があったので会場に行ってみたのだが、英会話の先生はアメリカ人のファンダメンタリストだった。英会話は隠れ蓑で、実は、宗教勧誘が目的だった。
私だから気づいたが、正体を隠しての布教(伝道)は詐欺と同じではないか。

統一協会や「福音派」に限ったことではないが、信者同士で結婚するのが当然という前提も、「結婚の自由」の侵害ではないかと思う。

「抱えている悩みや苦しみに対し、ご先祖の問題が今のあなたに影響を与えているなど根拠のない答えを示したり、世界の終わりがやってくると明言し、恐怖心でその人の心を支配しますよね。閉ざされた世界を作り、そこには「カリスマ」が必ずいて、「正しいことをしているのに迫害されている」などとありもしない話で被害者意識を作り上げる。」
塩谷氏は統一協会についておっしゃるのだが、この「ご先祖の問題」を、たとえば「あなたの罪」に置き換えたら、「福音派」の脅しとそっくりだ。「福音派」は、「私たちは正しいことをしているので迫害されています」と言う。そして「福音派」にもカリスマ的な人物がいる。

「危険な宗教の特徴として、二分法を用いるという点があります。この世界を「正しい世界」と「間違った世界」だったり、「善人」と「悪人」に分ける。性格が真面目で「正しい人」や「善人」でありたい人、正解を求めてしまいがちな人は狙われやすい。」という。
これも「福音派」の特徴と同じだ。何でもあれかこれかに分けようとする。世の中には、複雑なものや中間的なもの、あいまいなものも多くて、簡単に2つに分けたりできないのに、白でなければ黒のような、わかりやすい二分法の思考になってしまう。専門家でも簡単に答えられないことでも、簡単に「正解」を求めてしまう。

「危険な宗教団体は、恐怖心や不安をあおってその人の考える力を奪い、その不安の解消のために多額の献金や物品の購入を迫ります。健全な宗教の愛は「無償の愛」ですが、危険な宗教は「見返りを求める愛」なのです。」という。
これも「福音派」に当てはまる。
前から思っているのだが、多くの場合、教会や牧師の質と信者の負担は反比例する。つまり、質の高い教会や牧師から学べば信者の負担は小さく、あやしい教会や牧師だと、信者の金銭や労力の負担が非常に大きくなる。
「福音派」と称するあやしい教会は、信じる喜びで信者同士がつながっているのではなく、この教会から離れたらサタンの罠に落ちるとか、地獄で永遠に焼かれるといった恐怖心でつながっているようだ。

「救われて天国に行きたい」という目的で、そのために教会に寄付したり奉仕したりするのも、天国という見返りを求める御利益(ごりやく)宗教で、イエスの教えとは違う。そのような信仰のあり方は、高額な壺の購入や免罪符の購入と変わらない。


私の結論

統一協会と「福音派」は、実によく似ている。
異端とされているか正統とされているかの違いはあっても、そのカルト性、反社会性、真面目な人たちの入信、マインドコントロールの手法、見返りを求めること、金銭や労力の搾取など、共通点が多い。「正しいことをしているのに迫害されている」と思っている点までそっくりだ。
こうしたカルト団体は、イエスの教えとはかなり方向が違う。

世間から批判を受けて問題視されても、「被害者意識が植えつけられているので、批判を「迫害」ととらえ、結束がより強固になります。今の旧統一教会もそうした状況でしょう。」という。
これも、「福音派」とよく似ている。

(伊藤一滴)

新約聖書のイエスはキリストとして描かれたイエスだが・・・

新約聖書はイエス・キリストについて述べているが、その言葉も行ないも、後の人の手によってキリストとして描かれたイエスである。イエス自身が書いたものではないし、イエスのそばにいた人がその場で記録したものでもない。
各文書の厳密な成立年は不明だが、どれも、イエスの没後、相当の年月が経過してから書かれている。著者も、パウロ書簡の一部を除き、よくわからない。

聖書は古代人が残した文書である。彼らは、我々とは違う古代の世界観の中に生きていた。聖書の著者たちと世界観を異にする我々は、もう、聖書の記述を文字通り信じることはできなくなっている。聖書の世界観は現代人の世界観とは相いれない。

「私たちは聖書を文字通り信じています」と言う人たちもいるが、そう言う人たちはかなり無理な解釈をしている。もし本当に文字通り信じることが可能なら、「文字通り信じる」人たちの見解はみなピタリと一致し、対立などないはずだ。だが、実際は、「文字通り信じています」と言う人たちが教派に分かれて対立し、同じ教派の中にさえ対立が見られることもある。
「どの教派でもいいのです」などと口では言いながら、違う教派で聞いた話をすると露骨に嫌な顔をする牧師や信者もいる。

真に文字通り信じるというのなら、書かれた当時の世界観に立つしかない。とは言っても、かなり多くの人々が聖書の執筆に加わっているから、執筆者たちのそれぞれの世界観も一致していない。聖書のある部分の著者の世界観に立てば、別の箇所の世界観との食い違いも起きる。

聖書の各部分がほぼ一致しているのは、この世界は、天界、地上、下界の三層からなっているという宇宙像である。どんどん空高く昇るなら、天界に行きつく。地面をどんどん掘っていけば、下界に行きつく。天界は神や天使たちの世界であり、下界は悪魔や悪霊たちの世界である。この地上が人間の住む世界であり、地上には天界の勢力も下界の勢力も出入りして、人間に影響を与えている、といったイメージである。
他にも、超自然的な奇跡や、種々の霊の存在も、聖書が書かれた当時の執筆者の世界観では当然の前提であった。

もし、我々が、聖書が執筆された時代の世界観を、当時の人たちと同じように信じるのなら、どうなるのだろう。
その場合、地球が丸いことや、宇宙には地球よりも大きな星があることや、ウイルスに感染して病気になること、その他の、近現代の科学が突き止めた種々の成果を否定的に考えないと一貫性がなくなる。
地球が丸いとは、聖書のどこにも書かれていない。星はいちじくのように落ちて来るというから、空の星はいちじくくらいの大きさだと考えるのが聖書的だ。ウイルスの話もまったく出てこないが、悪霊に憑かれた人、月に冒された人は出てくる。病気は、悪霊や月の作用によって起きると考えるのが聖書的だ、のようになる。

一方で聖書を文字通りに信じ、もう一方で科学の成果を信じようとするのは、都合の良い切り貼りのように思えてならなかった。
10代から20代初めの私は、イエスの教えに強く心をひかれながら、相容れないものを両方とも信じる信じ方が出来なかった。
私はどこまでも、一貫性・客観性を求めた。


最近、中村圭志著『信じない人のためのイエスと福音書ガイド』(みすず書房)という本を紹介していただいて、読んでいる。現在は版元品切れのようだが、古書で買った。著者は非クリスチャンだという。私は「信じない人」ではないけれど、この本はなかなか見事だと思いながら読んでいる。現代の聖書研究の成果を、素人にもわかりやすく書いている。まあ、私も素人だけれど。
おもしろくて、ついつい、夜遅くまで読んでしまう。
著者は非クリスチャンだから、信仰を前提にせずに、どこまでも客観的に書けるのだろう。

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私も、聖書やキリスト教について何か言うときは、できるだけ客観的であろうと努めてはいる。各派のクリスチャンにも、非クリスチャンにも、伝わる言葉で語ろうと思っている。だが、私自身は、小学生のときに聖書に出会い、10代のときから「イエスの教えに従って生きていきたい」と思ってきた人間だ。そして、今もその思いから抜け出していない。だからつい「お祈りください」などと言ってしまうこともある。

私は、一貫性と客観性を大事にしたい。
そして、一貫性と客観性を大事にしながら、やはり、イエスの教えに従いたい。
そこに矛盾はないと思う。

参照「そんなイエスについていこうと思った」
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2017/04/post-9c77.html

私は、農作業をしながら、ほとんど無意識に讃美歌を歌っているときがある。


(「讃美歌」338番)

主よ、おわりまで 仕えまつらん、
みそばはなれず おらせたまえ、
世のたたかいは はげしくとも、
御旗のもとに おらせたまえ。

うき世のさかえ 目をまどわし、
いざないのこえ 耳にみちて、
こころむるもの 内外にあり、
主よ、わが盾と ならせたまえ。

しずかにきよき みこえをもて
名利のあらし しずめたまえ、
こころにさわぐ 波はなぎて、
わが主のみむね さやに写さん。

主よ、今ここに ちかいを立て、
しもべとなりて つかえまつる。
世にあるかぎり このこころを
つねにかわらず もたせたまえ。


(「讃美歌21」57番)
 
ガリラヤの風かおる丘で
ひとびとに話された
恵みのみことばを、
わたしにも聞かせてください。

あらしの日波たける湖(うみ)で
弟子たちをさとされた
ちからのみことばを、
わたしにも聞かせてくだざい。

ゴルゴタの十字架の上で
つみびとを招かれた
すくいのみことばを、
わたしにも聞かせてください。

夕ぐれのエマオヘの道で
弟子たちに告げられた
いのちのみことばを、
わたしにも聞かせてください。

(伊藤一滴)

追記:「讃美歌21」57番の2番目の歌詞ですが、初期の版だと「弟子たちにさとされた」となってます。これは誤植です。正しくは「弟子たちをさとされた」です。 
私が持っている誤植の版から引用していました。訂正します。 
なお、カトリックの典礼聖歌にも同じ歌がありますが、そちらは正しく印刷してありました。

キリスト教原理主義や聖書カルトの特徴

10代の頃、そうとは知らずに原理主義者(あるいはカルト)の「教会」で話を聞いていた自分の体験と、信者、脱会者から聞いた話から、キリスト教原理主義や聖書カルトの特徴を書きます。
思いつくまま書くので、順番は関係ないです。


新来者には、最初は優しく接して、受け入れてもらった気にさせる。
やがて、罪、悪魔、地獄などの恐怖を煽るようになり、罪悪感を植え付けて脅す。
罪の告白という形でプライベートなことも聞き出し、それも脅しに使う。
いつも、不安や恐れに囚われ、牧師や先輩信者の顔色ばかり伺うようになる。
自分で考えたり、自分で判断して行動するのをためらうようになる。
キリストに従うのではなく、牧師や先輩信者に従うようになっている。
信者同士の人間関係は濃厚で、最初はそれを良く感じるが、その濃い関係が互いを監視し合う役割を果たしている。
この教会から離れたら永遠の地獄で永遠に焼かれるのではないかという不安で、離れられなってしまう。


教理、信仰、考え方、信仰に基づく行動などの特徴は次の通り
(一般のキリスト教(特に福音派)と重なる部分もある)

「信仰の論拠は聖書66巻のみ」としている。そう言いながら、独自ルールもけっこうある。
「聖書は無誤無謬。歴史的にも、科学的にも、聖書に書いてあることは全て正しい」と言う。
「聖書に書いてあることだけに価値があり、書いてないことは無価値だ」と考えている。だから、「仏教史やイスラム教史などには価値がない。非キリスト教の思想や哲学にも価値がない」。
「進化論は間違っている」
「妊娠中絶は殺人であり大罪」
「日曜礼拝出席は絶対的な信者の義務」
「絶対禁酒」
「性に関する話はタブー」
「同性愛は死に値する大罪。同性婚など論外」
碁石を白と黒に分けるように、何でもあれかこれかで分けようとする二元論。「自分たちは正しく、自分たちの外の世界は正しくない」、「自分たちは神の側、外はサタンの側」、「クリスチャンは救われる、非クリスチャンは滅びる」。等々。
「リベラルなプロテスタントは間違っている、カトリックは間違っている」、「~は間違っている」と、やたら他派の悪口を言う。非キリスト教への悪口も多い。仲間の結束は固いが外には敵意むき出し。脱会者にも敵意むき出し。
「聖書のこの箇所はこうです」と、都合よく、簡単に断定する。聖書の専門家らは、聖書解釈に慎重で、簡単に断定したりしないのに。
信者の多くは純粋で真面目。悪意はない。マインドコントロールされ、時には自分で自分をマインドコントロールするようなことをして、信じ込んでいる。良い働きをしていると信じ、困難は救いのための試練と考え、原理主義やカルトに奉仕し、伝道している。
他教派や違う考えの人を大勢で取り囲み、詰問したりする。当人たちは、これも良い働きだと信じている。
反社会的な行動や非常識な言行を非難されているのに、「正しい信仰だから迫害されている、弾圧されている」と言う。

まだまだありますが、今日はここまでにします。

目を覚ましてくれるといいんですけれど・・・。

(伊藤一滴)