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誤りに気づいて、健全になってほしい

キリスト教原理主義者やカルトの主張のどこがどうおかしいのか書いてきたが、誤りを指摘するのは相手を全否定するためではない。
誤りに気づいて、健全になってほしいのだ。

個人的なうらみつらみをぶつけているのでもない。
健全になってほしいのだ。

仏教を信じて誠実に生きている人、イスラム教を信じて誠実に生きている人、他の宗教や無神論の信念を持って誠実に生きている人を、私は非難したことはないし、今後もしない。

保守的なプロテスタント信仰を持って、「福音派」と名乗っている人たちに対し、その教義や神学を非難するつもりもない。
聖書無誤論や進化論否定など、私は到底受け入れられないが、それはそれとして、そういう考えの人を、そう考えるからと、人として否定するつもりもない。

私が非難するのは、自分たちの先入観を「正しい聖書信仰」と信じ込んで高慢になり、それに合致しない人を断罪する人たちだ。
浅い知識で、上から、人を「正しく導いてあげないといけない」と思い、取り囲んで詰問するような人たちだ。浅く表面的な聖書理解を「真理」と信じ、自分たちなりの「真理」で自分を縛り、人をも縛ろうとする人たちだ。

「真理はあなたがたに自由を与える」はずなのに、規則や禁止事項でがんじがらめじゃないか。

私は、そのような「導き」や「真理」に従わなかった。それは、イエスの呼びかけと方向が逆だと思えた。

自分たちは「真理の側」にいるから、他者と対話する必要がない。対話をしないから、相手をひどく誤解して非難してくる。それは誤解だと、筋を通して話をしてもまるで聞く耳を持たない。(一例、リンボ界、下記参照)

リベラルになれとかカトリックになれとか言わないが、自称「福音派」の原理主義者やカルトではなく、本当の福音派になってもらいたい。(もちろん、リベラルなプロテスタントやカトリックになってもいい。)

私にしてみれば、取り囲まれて詰問された経験も、さらに聖書を学ぶきっかけになったと言える。
私の側からは、成長のチャンスを与えられた。

彼らには、目を覚ましてもらいたい。

たぶん、彼らはまじめだから、まじめに生きていこうとする中で原理主義やカルトに乗せられてしまったのだろう。
目を覚ましたら、きっと素晴らしい人になるだろう。

目を覚ますのが早ければ、それだけ残りの人生を有意義に使える。
もし遅くとも、今さらもう遅いということはない。私は、人には死ぬ寸前までチャンスはあると思っている。

意趣返しではない。
あなた方が憎いのでもない。

目を覚ましてもらいたい。

(伊藤一滴)


一例を挙げよう。


私が学生だった頃、「正しい聖書信仰に立つ福音主義のクリスチャン」を名乗る人が、「カトリック教会は天国には行けないが地獄に行くほどでもない霊魂はリンボ界に行くと主張していますが、聖書的でない話で誤りです」と言っていた。

それで私は、カトリック信者の知人らに、リンボ界についてどう思うか聞いてみた。
そしたら、
「リンボ界って何ですか?」と、逆に聞き返された。
何人かのカトリック信者に聞いが、誰もリンボ界を知らなかった。
ある信者は、
「どういう字を書くのですか。隣母会と書くのですか? そういう会はカトリックでは聞いたことがないですね」と言っていた。
さすがに神父さんは知っていたが、
「それは神学上の説の一つで、バチカンが公式に認めたカトリックの教義ではありませんよ」
と言っていた。

それで私は、その「正しい聖書信仰に立つ福音主義のクリスチャン」にカトリックの人から聞いた話をしたのだが、
「そんなはずはありません。カトリックはリンボ界を主張しています」の一点張り。
まるで聞く耳を持たなかった。

公式の教義と認められていない神学説を聞きかじって、「カトリックはこう言っているがそれは誤りだ」と非難する。まるで対話せず、相手の話を聞かず、「実際のカトリック教会」ではなく、「自分たちが頭の中で作り出したカトリック教会」を攻撃している。

これは一例で、「カトリックはこう言っているが誤りだ」「自由主義神学の人たち(※)はこう言っているが誤りだ」と、言っていないことや公式の教義でないこと、学説の一つであってほとんどの信者が知らないことを、半端な知識で非難する。

聖母マリアについて、非神話化論について、その他、いろいろ、言っていないことや公式の教義でないことを、半端な知識で非難するのを私はずいぶん聞いてしまった。


※「自分たち以外の神学」に、自由主義神学というレッテルを貼る。19世紀の自由主義神学という意味とは違う。様式史的研究も新正統主義も現代のカトリック神学も、福音派の中の比較的リベラルな見解も、みな自由主義神学にされてしまう。

参照:「悪口満載のお説教をする牧師達」
http://metanoiax.hatenablog.com/entry/2017/06/23/033702

私と「新改訳聖書」 イエス様の言葉づかい

1973年、小学校3年生だった私は、たまたまキリスト教の団体の方から新約聖書をいただきました。
当時の私には、本は貴重なものでした。
私は、山形県の田舎町で生まれました。家にはほとんど本なんてなくて、文化的なものとはおよそ縁遠い家でした。
せっかくもらった新約聖書ですから、紙でカバーを作り、汚さないようにして、最初のマタイ福音書から順に読み始めました。新改訳聖書でした。

新改訳ですから、配布していたのは福音派系の団体だったのでしょうか。
1973年に山形県の田舎町で子どもに聖書をくれたのはどういう人たちだったのか、今となっては確かめようもありませんが・・・・。

それが私と聖書の最初の出会いでした。

まさか、受け取った子どもの中の一人(つまり私)が、その後マニアのように聖書に夢中になるとか、「福音派」と名乗る人たち(新改訳聖書を使っている人たち)の一部を、手厳しく非難するようになるとか、配った人たちは想像もしなかったことでしょう。

日本語の聖書の多くが総ルビの(すべての漢字に振り仮名がついている)本ですが、その新約聖書もそうでしたから、小学生でも読むには読めました。「姦淫」なんて言葉も出てくるんで、どう思って読んだんでしょうね。

小学3年生でも、読んでいて、心に響く箇所がありました。
また、福音書相互の食い違いも感じていました。

聖書の他の訳を知らなかったので、ずっとこの新改訳の新約聖書を読んでました。高校生のとき、新約と旧約が一冊になった聖書を買いましたが、これも、今までなじんだ新改訳を買いました。

キリスト教の教派の特色も、そもそも教派のことも、ほとんど何も知りませんでした。常識的に知っていたのは、キリスト教にはカトリックとプロテスタントがあることぐらいでした。

家から行ける距離にある「正統プロテスタントの、正しい聖書信仰に立つ福音的な教会」に行って、話を聞いたりもしました。その「教会」も新改訳聖書を使っていました。
歓迎してくれましたが、私が疑問に思っていたことを聞いても、どうも話が噛み合わないんです。何度か行くようになってから福音書相互の食い違いについて聞いても、「聖書に食い違いなどありません」みたいな感じで。しつこく聞いたら嫌な顔をされました。

あとから思えば極端な原理主義(あるいはカルト)の集まりでしたが、他の教派のことを何も知らないし、すぐに変だとは気づかず、時々行って話を聞いていました。「あれっ?」と思うような話もありましたが、いい話もするんです。
やがて、高校生になって倫理社会の授業を受けたりいろいろな本を読んだりするうちに、「どうもあの教会は変だ、普通のキリスト教ではないようだ」と思うようになりましたが、「普通のキリスト教」を知らないので比べようがありませんでした。

高校を卒業した1983年、浪人し、仙台の予備校に入りました。
家からは通えないので、予備校の寮に住みました。
寮から予備校に行く途中、教会を見かけ、寄ってみました。聖書やキリスト教のことを聞きたかったのです。それは福音派の教会でした。福音派を選んでそこに行ったのではありません。当時、教派のことはよく知らず、たまたま寄ったら福音派だったのです。
高齢の牧師さんがおられ、お話を伺いました。とても温和な、優しい感じの人でした。聖書についての学問的な話はあまりなさらず、聖書を引用しながら、ご自分の体験や、生き方についての話をしてくださいました。そして、「伊藤さん、あなたはどう思いますか?」とたずねるのでした。孫のような私(当時19歳)にきちんと敬語を使い、「伊藤さん」と呼び、私のために祈ってくださるのでした。
私が聞いたことに対しても、誠実に答えてくださる方でした。ごまかしたり、話をそらしたり、決してしませんでした。即答できないようなことを聞いても、「次にお会いするときまで調べておきます」とおっしゃり、本当に調べてくださいました。時には、その答えに納得できないこともありましたが、調べて答えてくださるその姿勢に、誠実さを感じました。
私は、この牧師さんとお話するのが楽しくなって、牧師さんのご都合のよいときに時々寄るようになりました。
あの牧師さんが人を悪く言うのを聞いたことがありません。他宗教・他教派のことも、決して悪く言いませんでした。
その教会でも新改訳聖書を使っていましたが、牧師さんは他の聖書の翻訳について非難めいたことは何も言いませんでした。私が口語訳聖書やカトリックの訳などを持って行っても、「訳し方によってはそうも訳せるのですね。いろいろな訳で読んでみるのもいいですね」とおっしゃるだけでした。
そして牧師さんご自身、いろいろな訳をお読みになっていました。

山形県にいたときに最初に行った「正しい聖書信仰に立つ福音的な教会」は、他の立場を悪く言うことで自分たちの正しさを主張していましたから、同じように福音派と名乗っても、えらい違いでした。


いろいろ本を読んだり人の話を聞いたりするうち、プロテスタントにはリベラルな主流派と、保守的な福音派がある、とか、新改訳聖書は福音派の独自の訳だとか、だんだんわかってきました。1983年~1984年頃でした。浪人中から、大学生になった頃です。最初に聖書に出会ってから10年経っていました。

1984年、大学に進み、愛知県に引っ越しました。本当は聖書学や神学を専攻したかったのですが親の許しを得られず、社会福祉学部に進みました。福祉も、学んでみたい分野でしたし、社会福祉学部ならキリスト教と関係が深いだろうと思う気持ちもありました。でも、入学してみたら、宗教よりマルクス主義の影響の強い大学でした。それはそれで、勉強になりましたが・・・・。

だんだんリベラルな聖書理解に触れるようになって、主に日本聖書協会の口語訳聖書を使うようになり、やがて新共同訳聖書が刊行されたので、これも併せて使うようになりました。その後RSVやNRSV、時々は現代表記の欽定訳(AV,KJV)も参照しています。
まあ、それぞれの訳に特徴があって、この訳が最高だ、なんて言えません。

これまで、文語訳、複数の個人訳、カトリックの訳、いろんな訳で聖書を読みましたが、イエス様の言葉づかいに関しては、最初に読んだ新改訳が一番好きです。
新改訳のイエス様は、言葉がていねいで、言葉の響きがやわらかいのです。翻訳の良し悪しではなく、発言の印象の問題です。

私は、一般の人たちにていねいな言葉で話しかけたイエス様を想像しています。
まさかね。一般の人に向かって、今の日本語にすると「~である。」みたいな口調でものを言ったとは思えません。論文じゃあるまいし。
会話なのに「である」調だと、なんだか尊大で、居丈高な物言いに聞こえてしまうんです。


大学生のとき、学内で聖書カルトっぽい人たちから取り囲まれてさんざん詰問されて、ひどい目に遭いました。「あなたの聖書理解は間違っています」とか、「あなたには信仰がないからそんなことが言えるんです」とか、「あなたは救いの内にいないようです」とか。
彼らは自分たちなりの「正しい聖書理解」を掲げ、それに当てはまらない人を「間違っている」として糾弾していました。
彼らの考え方は、山形県内で会った「正しい聖書信仰に立つ福音的な教会」とよく似てました。

私を詰問した人たちが使っていたのも新改訳聖書でした。
彼らは自分たちの聖書信仰の正しさを確信してましたから、聖書の正義で誤りを糾していると思っていたのでしょう。自分たちは正しく神を信じ、正しいことをしているという熱意に燃えていたのでしょう。

そういうことが何度かあると、さすがに私も頭に来ましたね。当時は私もまだ若くて血気盛んだったし、本当に腹が立って、かなり言い返してやりました。私が筋を立てて反論しても一切聞く耳を持たない「確固たる信念」の人たちでした。それは信仰というより、他の宗教カルトや左翼セクトと同様の、病的な思い込みのようでした。
正しい聖書信仰の名のもとに病的になってしまうのですから、もし本当にサタンの働きというものがあるのなら、彼らの「信仰」こそまさにサタンの働きでしょう。

当時の大学にはカルト相談窓口なんてなかったし、当時の私も彼らを思いやる余裕などなくて、ただただ腹を立てていました。
彼らが持っていた新改訳聖書と同じものを私も持っていましたが、そのぶどうのマークを見るだけでも怒りが込み上げてきて、新改訳にはさわりたくもなくなって、捨ててやりたくなりました。でも、この訳にはいろいろ思い出もありましたし、仙台の牧師さんのこともあって、思いとどまり、捨てるのをやめました。
このとき、新改訳聖書以外の福音派系の本はほとんど捨てたので、自分の本棚がリセットされました。

彼らのやり方は、まったく、マイナスの伝道です。
人を聖書に導くのではなく、聖書やキリスト教への反感や怒りを広めているだけです。

あとになって、また福音派系の本を買うこともありましたけれど、よくよく選ぶようにしました。

1990年頃になっての話ですが、東京で暮らすようになり、あるカトリック司祭(神父さん)と話をする機会がありました。当時、司祭になったばかりの若い人でした。その神父さんに聖書カルトらしき人たちに取り囲まれた話をしたら、彼が言うんです。
「僕もやられたことがありますよ。神学生のときでした。僕が神学校から出たのをつけてきたんですね。駅の構内で取り囲まれて、『カトリックの神学生ですか?』って聞かれたんで『そうです』って答えたら、『私たちは正しい聖書信仰に立つ福音主義のクリスチャンです。カトリックは聖書にないことを教えています。あなたは考えを改め、正しい教えを信じるべきです』って、まあ、凄かった。『いや、私は、カトリックの教えを信じているからカトリック司祭になろうとしているんです』って答えたら、『ではお聞きします。神の義とは何ですか』って聞いてくるんです。そんなこと、とても一言では答えられないでしょう。だから、どう答えようかとしばらく考えていたら、『ほら、答えられない。こんな基本的なことさえすぐに答えられないなんて、やはりカトリックは間違っている』って、責められましたよ。あの人たちは、自分たちの問答集のようなものを暗記しているみたいで、こう聞かれたらこう答えるという答えを持っているんです。そして、すぐにその通りに答えない人を間違っているって決めてかかるんです。凄かった」

私の後輩にもやられた人がいるから、「正しい聖書信仰に立つ福音主義のクリスチャン」たちは、けっこうやってるんだなあ。
折伏ですかね。
マイナスの伝道なのに。

カトリック教会の前でミサが終わるのを待って、出てきた信者にマリア崇敬を攻撃するプリントを配り始めた「福音派」の人たちもいるそうですから、すごいなあ。たぶん、自称「福音派」のカルトでしょうけれど。
出典:https://blog.goo.ne.jp/hougensinpu321/c/8a7910373cf4506b82aab6740daf8633

人を取り囲んで責め立てる人たちも使っている新改訳聖書だから、とても悪い印象を持っている人もいます。私も一時、読むどころか、さわりたくもないくらい腹を立てました。でもそれは訳文のせいではなくて、使う人たちの問題なんですけどね。それも、一部の人たちです。福音派には良識のある人がたくさんいます。

新改訳聖書は福音派独自の訳で、福音派・聖霊派以外はまず使わない、とか、
極端な原理主義者やカルトも使っている、とか、
学術的には相手にされていない、とか、
著作権にはやたらうるさいので、引用は気をつけないといけない、とか、

いろいろ言われますけれど、それでも私は、新改訳のイエス様のていねいな言葉づかいが好きですね。

日本聖書協会が『聖書協会共同訳』を出しましたが、イエス様の言葉が「である」調で、これには失望しました。戦後間もない頃の口語訳ならともかく、今も「である」とは・・・・。翻訳の良し悪しではなく、この言葉づかいで買う気が失せました。(ちなみに、『新改訳2017』は買いました。新約にもツァラアトはないだろう、って、不満もありますけど。)

いつの日か、福音書に記されたイエス様の言葉を訳したい。おそらくイエス様の口調はこんな感じだったのではないかと思える言葉で訳したい。
そんな夢があります。

(伊藤一滴)

キリスト教の本質は弱者のルサンチマン?

学生時代にニーチェに触れ、キリスト教の本質を「弱者のルサンチマン(弱者の憎悪)」とする見解にぎくりとしました。

キリスト教徒の中には、本当に、「ルサンチマン」としての「信仰」を持つ人が一定数いるんじゃないかと思いました。

「私は聖書を信じ、イエス様を信じている。イエス様が十字架で罪を贖ってくださったのだと信じている。だから私は天国に行く。私を侮辱し、ひどい扱いをしている人たちがいるが、彼らは、今はこの世で栄えていても死後にさばかれて地獄に落ちる。そこで永遠に焼かれる。そうならないよう、彼らが私の話に耳を傾け、悔い改めるよう祈る」

一見「正統信仰」のようだけれど、それって、イエスが人々に伝えようとした教えなんだろうか?

それは、弱者の側の強者への憎悪、虚栄、仮想的な優越感や有能感・・・・ではないんだろうか。

ルサンチマン(憎悪)がキリスト教と不可分なものであるなら、キリスト教は愛の宗教ではなく憎悪の宗教ではないのか。

この世において勝ち目のない弱者が、自分を「正しい信仰を持つ者」とし、この世の強者に対して憎悪や虚栄のこもった仮想的な優越感や有能感をいだく。実際は、その弱者は本当に弱いのであり、劣っているのであって、優越でも有能でもないのだけれど、優越・有能の仮想を信じて自分を保とうとする。この世の強者に対して、上から目線になって、見下して、本当は自分の方が上なんだ、自分はイエス様を信じているのだから、こっちには神様がついている、永遠の命があるんだと信じ込む。
それが、キリスト教の本質?

もしキリスト教がその程度の宗教なら、キリスト教が説く神は死んだ。もうすでに死んでいる。
学生の頃、そんなことを考えていました。

このルサンチマン説は、すべてのキリスト信者に当てはまるわけではないけれど、「正統信仰」を自称する原理主義やカルトには当てはまるのではないかと思えてきました。

(一滴)