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大震災から1年(「悲しみと悲しみの過程において」)

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大震災から1年。
多くの問題が未解決のまま残されており、私は、重い気持ちで1年目を迎えました。

「建築」の分野では、火事場泥棒的な悪徳業者はだいぶ淘汰されてきたようですが、被害の大きさを思うと、残された課題も多いです。

エリザベス・キューブラー・ロスとデーヴィッド・ケスラーの共著『永遠の別れ』[日本教文社]を読んでいます。原題は「悲しみと悲しみの過程において」で、この悲しみというのは、英語のグリーフ(身近な人を失うなどの非常に深い悲しみ)です。悲嘆とも訳されます。

大震災で身近な人を亡くし、心に深い痛手を負っている人がたくさんいます。
もちろん、悲しみを癒す特効薬などありませんし、悲しみを越えてゆくのに必要な時間も、人により、状況により、かなり異なることでしょう。
それでもこの本は、今の日本の状況への答えのヒントになるのではないかと思い、読んでいます(特に第4章「特殊な喪失体験」の中の「災害」の箇所など)。

キューブラー・ロスの最初の著書『死ぬ瞬間』[読売新聞社](原題は「死と死にゆく過程において」)では、死にゆく人の心の五段階が述べられていますが、『永遠の別れ』には、残された人が、深い悲しみを越えてゆく心の五段階が出てきます。

『死ぬ瞬間』はターミナル・ケアの分野で、『永遠の別れ』はグリーフ・ケアの分野、と言えます。

どちらも良書です。ただし、日本語版の題名は不満です。
『死ぬ瞬間』の内容は原題のとおり「死と死にゆく過程」に関するものであり、「死ぬ瞬間」そのものについて論じたものではありません。彼女の「死ぬ瞬間」に関する見解は自伝『人生は廻る輪のように』などに出てきますが、医療や福祉の話ではなく、神秘的な話です。分類するなら宗教に近い話です。
『永遠の別れ』にしても、内容は「悲しみと悲しみの過程」についてであり、キューブラー・ロス先生ご自身は、死を永遠の別れとは考えていませんでした。彼女は、霊や死後を信じていましたから、死ぬときには先に死んだ人と再会すると言うのです。「死は存在しない」とまでおっしゃっていて、「永遠の別れ」という発想はエリザベス・キューブラー・ロスにはありません。

私も、霊や死後を信じないより信じたほうが、残された人たちの慰めになる、癒しになる、と思います。
霊や死後が「嘘も方便」なのか、それとも「真実」なのか、いつか、わかる日が来るのかもしれません。
今の段階では、仮に方便だとしても、霊や死後を信じることが残された人たちの慰めになり癒しになる、と言うことは出来ます。
そして、これも以前から言っていることですが、神や仏が存在してもしなくとも祈ることには意味があるし、死者を追悼することには意味がある、と思います。

特定の宗教の形式でなければならないということではありません。ただし、深い悲しみの中にある人のところに、金銭が目当てのエセ宗教や排他的なイデオロギーを持つ原理主義宗教が接近してくることがありますから、これは、警戒する必要があります。

気持ちが重いですし、私の心の中も、整理されておりません。
まとまりのないことを書いてしまいましたが、震災に関して、私の心がまだ、まとまりのない状態です。
(伊藤一滴)

日本の英語教育は何が問題なのか

中学1年の息子が英語で苦戦していたので、英語をどう学ぶべきか考えてみました。

日本の英語教育は何が問題なのでしょう。

ほとんどの人が、中学・高校で6年間英語を学び、さらに進学して英語を学ぶ人も多いこの日本で、しかも、英語教育に非常に多額のお金を費やしているこの日本で、平均的な英語力はアジア諸国中で最低ランクというのはどういうことなのでしょう。

答えは出ています。
英文を読む量が少なすぎるのです。だから、身につかないのです。
それは、プールに入らないで水泳の練習をするようなものです。水泳の理論について何年講習を受けたって、どんな高度な理論を学んだって、水に入らずに泳ぎが上達するはずがないのです。

私自身、学生時代、英語の単語帳を丸暗記したり、構文集を買って来て、ノートに書き写して暗記してみたり、分厚い文法書と格闘したり、いろいろ試してみましたが、苦労の割には効果が上がりませんでした。苦労はしました。その結果、報われたならともかく、ザルで水をすくうような状態でした。
他の教科は努力すればそれなりの結果が出るのに、何で英語だけはこんなに駄目なのか、自分は生まれつき英語に向いていないのかと悩みました。

やり方を間違えていたのです。

話に脈絡のない例文が続く構文集の暗記などではなく、話がつながっていくもの(物語など)を、原書でひたすら読むのが、もっとも効果的な語学学習法だと気づいたのは大学を卒業してからでした。そうすると、いろいろな本に出てきた単語や構文が頭の中でつながってゆくのです。無理に丸暗記する必要はなかったのです。
考えてみれば日本語だって、何冊も何冊も本を読む中で、いろいろな言葉や表現を覚えたのです。

英語で苦労している中1の息子に、英文を読むことを勧めました。
「書くことや聞き取ることも必要じゃないの」
と息子は言いましたが、
「読めないものを書けるはずがない、読めないものを正確に聞き取れるはずがない」
と、まず教科書から、ひたすら読むよう勧め、アメリカの幼児や小学生向けの英文の本を一緒に読んでみました。
その結果、やはり、答えは出ました。
息子は、教科書やワークブックの英文をあまりつっかえないで読めるようになり、読めるようになってくると、英語の成績も上昇していきました。

誤解されると困りますが、英語の成績の向上や受験対策が目的で英文を読むように勧めたのではありません。だんだん英語というものを身につけていって、やがて、道具として使えるようになってもらいたいからです。成績向上は、結果そうなった副産物です。

不透明な時代です。今までは、日本語が分かれば日本での生活は何も困りませんでした。
これからは、分かりません。
英米に媚びるつもりはありませんが、英語が世界で使われている以上、実用的な道具としての英語を身につけてほしいと思うのです。もちろん他の言語も学んでくれていいのですが、私は教えられないので、まず英語からです。

今、息子と一緒に「セサミストリート」シリーズやアーノルド・ローベルの「かえるくんとがまくん」シリーズなどを読んでいます。
内容がおもしろいので、読みながら私も何度も笑いました。そばで聞いている保育園児の娘が大喜びです。
どんな分野だって身につけるためには努力も時間も必要ですが、どうせ英文を読むなら、苦しみながらではなく楽しく読んだほうがいいでしょう。

というわけで、雪に閉ざされた山里の家の中で、私は子どもたちと英語の児童書を読書中です。
(伊藤一滴)

補足
(私は今まで生きてきて、いろいろな例を見て、学歴や収入を第一とする生き方が人を幸せにするとは思えなくなりました。むしろ、不幸にすることならあるでしょう。英語の力を伸ばし、自分がやりたいことの実現につなげるのならいいのですが、単に受験競争に勝ち抜くための英語にしてほしくないです。)