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初穂

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今朝、田んぼに行ったら、初穂が出ていて花が咲きかけていました。

例年、穂が出るのは8月に入ってからですが、今年は高温続きで早いようです。冷夏の予測が外れ、ひと安心です。

やっと、写真が載せられるようになりました。(伊藤)

「経済の成長は人を幸せにしない」ラトゥーシュ氏

7月14日朝の朝日新聞(山形県内)に次の記事が載りました(たぶん、多くの地域では13日の夕刊?)。

「経済の成長は人を幸せにしない 経済哲学者・ラトゥーシュ氏に聞く」

ぜひ紹介したい見解ですので、要約して引用します。取材は樋口大二氏です。

要約引用開始

「脱成長」を掲げる仏の経済哲学者セルジュ・ラトゥーシュ氏(70)が来日した。『経済成長なき社会発展は可能か?』(邦訳:作品社、今月刊行)の著者である氏に、あるべき経済政策などについて聞いた。

「私が(経済の)成長に反対するのは、いくら経済が成長しても人々を幸せにしないからだ。成長のための成長が目的化され、無駄な消費が強いられている。そのような成長は、それが続く限り、汚染やストレスを増やすだけだ」

「持続可能な成長」という考え方が広く受け入れられるようになったが、「持続可能な成長」は語義矛盾だ。「地球が有限である以上、無限に成長を持続させることは生態学的に不可能だからだ」

今の社会システムのままでマイナス成長に転じても事態はかえって悪化するだけであり、「より本質的な解決策は、グローバル経済から離脱して地域社会の自立を導くことだ」

貧しい国も成長を拒否すべきなのだろうかという問いに、
「北の国々(先進国)による従来の開発は、南の国々(貧国)に低発展の状態を強いたうえ、地域の文化や生態系を破壊してきた。そのような進め方による成長ではなく、南の人々自身がオリジナルの道を作っていけるようにしなければならない」

菅直人首相は、経済成長と財政再建は両立できると訴えているが、「欧州の政治家も同じようなことを言っているが、誰も成功していない」

「彼ら(政治家)は資本主義に成長を、緊縮財政で人々に節約を求めるが、本来それは逆であるべきだ。資本主義はもっと節約をすべきだし、人々はもっと豊かに生きられる。我々の目指すのは、つましい、しかし幸福な社会だ」

要約引用終了

なんか、私がいつも言っていることと、同じような話に思えるんですが・・・・。
こうして要約して引用してみると、当たり前というか、常識的な話というか・・・・。
しかし、小泉竹中改革をいまだに支持している人や、グローバリズムを信奉する人、資本主義になんの疑いも持たない人、藤巻健史氏とか、その他これらに類する者にとっては、非常識な話なのでしょう。きっと。
(伊藤)

有害な支持率調査

鳩山由紀夫氏の評価を、なぜ今ごろ書くのか、なぜそのとき書かなかったのかと言われそうですが、私には、政治家の見解をすぐに評価するような能力はありません。総合的に考えればこのように思うと、後から言えるだけです。

たぶん、大部分の人はそうでしょう。
リアルタイムで内閣や政党の支持率を出すのは意味がないし、意味がないどころか有害です。
政治的見解や政治家の判断についてすぐに正当な評価を下せる人なんて、ほとんどいません。もちろん私もできません。そんな能力があるなら私は政治家か評論家を目ざします。
大多数の人は、なんとなくイメージで語っているだけです。一般の人の一時的で主観的なイメージを訊ねて人気投票みたいに支持率を調査し、発表することに、なんの意味があるのでしょう。芸能人じゃあるまいし。そんなことに未来を委ねていいのでしょうか。

リアルタイムの支持率がこまめに公表されれば、政治は劇場化し、政治家は大衆迎合型、または大衆煽動型になるだけです。
うまく大衆に迎合する人、世論を誘導する人、煽動する人が支持され、人気者になるのです。政権交代以前、与党にそういう人がいました。そういう人物に追従する人たちを圧勝させた結果、その後の日本がどれほどひどいことになったのか、はっきり検証すべきです。

支持率ばかり気にしていたら、政治家は、「今この政策を実施すれば国民の不評を買うだろうが、将来のことを考えれば実施すべきだ」というふうに動けません。
たとえて言えば、タイタニック号が氷山に向かっているのに操舵士は舵を切れない、という事態です。

「なんで舵を切るんだ。今、舵を切られたら経済活動にマイナスの影響が出る。庶民の暮らしが圧迫される。やめてくれー。えっ、氷山?そんなの政府がなんとかしてくれるだろう。そんなことより、こっちは日々の生活がかかってるんだ。舵を切るな!」
ドッカーン!

1000兆円にせまろうとする借金をかかえ、日本は沈没、となるのでしょうか。

(今回もまた政治経済ネタになってしまいました。すみません。)
(伊藤)

鳩山前首相の評価

このたびの参院選での民主党の敗北は当然の結果でしょう。
それより、みんながあまり言わないことを書きます。

鳩山由紀夫前首相は正当に評価されたのでしょうか。
氏が掲げた友愛の理念、いのちを大切にする政治というのは、高い理想であったと思います。
鳩山内閣の施政方針演説は、今読んでも説得力があり、私は、名演説だと思いますが、日本社会はこの演説に示された理念を正当に評価したのでしょうか。

たとえば次の箇所。

引用開始
 世界中の子どもたちが、飢餓や感染症、紛争や地雷によっていのちを奪われることのない社会をつくっていこうではありませんか。誰もが衛生的な水を飲むことができ、差別や偏見とは無縁に、人権が守られ基礎的な教育が受けられる、そんな暮らしを、国際社会の責任として、すべての子どもたちに保障していかなければなりません。
(略)
 この宇宙が生成して百三十七億年、地球が誕生して四十六億年。その長い時間軸から見れば、人類が生まれ、そして文明生活をおくれるようになった、いわゆる「人間圏」ができたこの一万年は、ごく短い時間に過ぎません。しかし、この「短時間」の中で、私たちは、地球の時間を驚くべき速度で早送りして、資源を浪費し、地球環境を大きく破壊し、生態系にかつてない激変を加えています。約三千万とも言われる地球上の生物種のうち、現在年間約四万の種が絶滅していると推測されています。現代の産業活動や生活スタイルは、豊かさをもたらす一方で、確実に、人類が現在のような文明生活をおくることができる「残り時間」を短くしていることに、私たち自身が気づかなければなりません。
引用終了

私は、まったく賛成です。危機感を持って取り組むべきだと思います。どうでしょう。これらの指摘は正当に評価されたのでしょうか。
日本社会は、鳩山由紀夫氏がおっしゃった問題には無関心なのでしょうか。これらは「お坊ちゃんのたわごと」なのでしょうか。

さらに鳩山氏はこうおっしゃいました。

引用開始
 私は、昨年末、インドを訪問した際、希望して、尊敬するマハトマ・ガンジー師の慰霊碑に献花させていただきました。慰霊碑には、ガンジー師が、八十数年前に記した「七つの社会的大罪」が刻まれています。

 「理念なき政治」

 「労働なき富」

 「良心なき快楽」

 「人格なき教育」

 「道徳なき商業」

 「人間性なき科学」、そして

 「犠牲なき宗教」です。

 まさに、今の日本と世界が抱える諸問題を、鋭く言い当てているのではないでしょうか。

 二十世紀の物質的な豊かさを支えてきた経済が、本当の意味で人を豊かにし、幸せをもたらしてきたのか。資本主義社会を維持しつつ、行き過ぎた「道徳なき商業」、「労働なき富」を、どのように制御していくべきなのか。人間が人間らしく幸福に生きていくために、どのような経済が、政治が、社会が、教育が望ましいのか。今、その理念が、哲学が問われています。
引用終了

私自身は資本主義社会の維持については疑問視していますが、それ以外の点では、まったく的を得た指摘だと思います。理念が、哲学が問われているのです。

施政方針演説でこんなことを言った総理大臣はいなかったのです。
やっと、まっとうな理念を掲げ、まっとうな問題提起をする人が総理大臣になったと、うれしく思いました。

ところが、こうした高い理念、鋭い指摘を、日本社会はよってたかって潰したのではありませんか。
もちろん、鳩山内閣には問題もありました。小沢一郎氏の影がちらついていたし、資金管理や普天間発言の問題もありました。だからといって、皆で袋叩きにしたあげく、その理念さえも、聞く耳を持たなくなってしまったように思え、残念です。

普天間問題にしても、マスコミはずいぶん叩いたけれど、ではマスコミの側に何か妙案があるのかというと、なかったのです。自分たちにも答えがないのに、その答えを首相に求め、何か言えば叩くという報道を続けました。ほとんどのマスコミは米軍基地問題を国民的課題として議論する方向に持っていこうともせず、ただ鳩山氏の言葉尻をとらえて叩き続けたのです。

鳩山由紀夫氏はあまりにも理念が高すぎた。長期的未来まで展望しすぎた。すぐに実現できないことまで言ってしまった。すぐ答えを求める国民はついて行けず、聞く耳を持たなくなってしまった、という感じもします。そうやって鳩山氏を追いやり、鳩山氏が掲げた理念まで追いやってしまったかのように思え、本当に残念です。

首相の座を継いだ菅直人氏の口からは、「友愛」や「いのち」のメッセージは伝わってきませんでした。物質文明批判も出ませんでした。
マニフェストの約束をほごにするような唐突な消費税発言のあげく、民主党は敗退しました。
(伊藤)

所有の魔力

お金がなくて苦労した人の中には「お金があれば幸せになれる」と思う人がいる。
モノがなくて苦労した人の中には「モノがあれば幸せになれる」と思う人がいる。
土地がなくて苦労した人の中には「土地があれば幸せになれる」と思う人がいる。
古いものを使って我慢してきた人の中には「新しいものがあれば幸せになれる」と思う人がいる。
そんなところでしょうか。

実際のところ、所有と幸福は比例しません。
冷静に考えればわかりそうなものですが、冷静に考えられなくなるのが所有を求める魔力なのでしょう。
資本主義社会そのものが、とことん所有をあおる社会ですが、この魔力に取り憑かれ、いい結果になることは、まず、ないでしょう。
多くを所有するためには、自分にも、家族にも、犠牲や我慢が多いのです。
それに、いくら所有したって、人はいつか死にます。どんなに長生きしたって老いていくし、最後には死にます。死んだらあの世には持っていけません。

私は、山形県村山地方の山里の古民家に暮らしています。地方都市から転居して、今年で6年目になりました。私と妻と子ども3人の5人家族で、大自然の中、つつましく暮らしています。山里の古民家暮しは、不便と思わなければ不便はないし、不自由と思わなければ不自由もないです。むしろ、都市の束縛から解放され、のびのびした気持ちでいます。
本当にタヌキやキツネが出るし、夜になるとフクロウが鳴いています。夜は真っ暗で、自宅の駐車場まで行くのも怖いみたいな感じです。ただし、戦後1件も犯罪はないそうで、たまにクマが出るくらいです。集落には、うちを含めて10数戸の家があります。

「もっといい家もある」と言う人もいますが、「いい家」が、かつての富農・豪商の家だったりします。
召使いや女中が何人もいて維持されていた家に、現代の普通の家族が暮らしたらどうなるか。維持するだけでも大変でしょう。
普通の家族が、家に使用人など置かずに、小規模の農業をやるくらいの、身の丈に合った家がちょうどいいです。

私たちが住んでいる家は1933年(昭和8年)築。当時の地主の分家の家でしたが、分家ですから、使用人などおらず、まずまずの暮らしをしていた自作農だったようです。古い家ですが造りはしっかりしていて、私たちが住むのにぴったりです。土地込みで、新築住宅を建てる4分の1以下の値段で購入しました。
家の機能を維持するため、ある程度自分で補修しましたが、お金をかけた民家再生はしておらず、オリジナルの状態に近いので通気性のいい家です(夏はいいのですが、冬はちょっと・・・・)。コンクリートの基礎はなく、玉石の上に土台が載っています。奥の座敷は暗く、階段は急勾配。トイレは汲み取り式。と、まあ、かつての民家そのものです。でも、私たちにはこれが「いい家」で、最新の住宅設備や豪邸は望んでいません。ほどほどがいいです。

所有と幸福は比例しないし、新しさと幸福も比例しません。
数字で表されるものと幸福とが比例しないのと似ています。
(伊藤)

人にはどれだけの(  )が必要か

暑いです。
山里とはいえ山形盆地の夏の日中は暑いです。でも、この暑さが豊かな作物を育むわけで、農家にとってはありがたい暑さです。今年の梅雨はけっこう雨も多く、水の不足もありませんでした。暑さも雨も含めて自然の恵みに感謝です。

『人にはどれだけの土地が必要か』というのは、トルストイの作品の題名ですが、この作品の問いかけは、「人にはどれだけのモノが必要か」とか、「人にはどれだけのカネが必要か」、といった問いと共通していると思います。

『人にはどれだけの土地が必要か』という物語の主人公の男は、ある部族が住む土地に行き、部族の族長から「日の出から日没まで徒歩でまわった土地を全部やる」と言われます。それで欲を出してどんどん遠くまで行き、日没がせまって全速力で戻ってきてゴールしたとたんに死んでしまった、という話です。膨大な土地を手に入れようとして、結局は自分を葬る墓地の土地を手に入れただけだった、というのです。

土地であれ、モノであれ、カネであれ、あり余るほどあっても使いきれません。管理するのはもちろん、把握するのも大変です。

生活できないような貧困は困りますが、十分生活できるレベルを越えて土地やモノやカネを所有してしまうと、持っている量と幸福は比例しなくなるといいます。

古くはデュルケムの『自殺論』が指摘したとおり、富豪の自殺率は高いのです。もし、持っている量と幸福が比例するなら、あればあるほど幸せで、自殺率は低くなるはずなのに。

あり余るほど持っていて、かえって幸せを感じないのでは、いったい何のために持つのかということになります。

質素に生きるのにこれくらいでも十分という量が、一番適切なのでしょう。
私は、その一番適切というのが、いちばん幸せなのではないかと思います。
(伊藤)

話の続き

「新規就農できるのは、資金のあるインテリだけ」と言われたら、反論できるんだろうかと考えてしまいました。私自身はともかく(私はたいしてお金もないし頭もたいしたことないのでともかく)、私が思いつく新規就農者のほとんどは高学歴だし、一流とされる職を辞してきた人が多いです。「収入が5分の1(人によっては8分の1)以下になったけれど、今の方がどれだけ幸せかわからない」なんて言って笑っていられるのは、これまでの蓄えがあり、頭脳があり、学歴や資格があり、いざとなったら他の仕事で食べていく自信があるからだろうかと、考えてしまいました。
私のように、資金も頭もたいしたことなく就農する人は、覚悟の上とはいえ、厳しい出発です。
ようは、新規就農のハードルが高すぎるし、就農後の収入が低すぎるのです。
農業というのは、自然が相手です。いやな上司もいなければ職場の人間関係に悩むこともない、決められた時間まで出勤する必要もないし、定時まで職場に残る必要もない、自由度が大きい仕事です。そういう意味で、いやなストレスもないし、理想的な仕事なのですが・・・・。
今のところ、新規就農は狭き門です。それは、希望者が多くて競争が厳しいという意味ではなくて、条件をクリアするのが大変なのです。別に、倍率が高いわけではありません。
新規就農のハードルが高すぎて就農後の収入が低すぎるという問題、今後の日本の農業の課題の1つでしょう。

ただし、私自身は、収入と幸福は比例しないと知っています。
それは、自分の体験でもあります。
世の中がバブルの頂点だった頃、私は駆け出しの二級建築士でした。あの頃、建築業界は潤っていて、私も儲けました。経験の乏しい二級建築士なのに、こんなに儲かっていいのかと思うくらい儲けました。それで幸せだったかというと、幸せの実感はほとんどなかったです。儲かっていただけで、毎日忙しく、がむしゃらに生きてました。
あの頃のお金を今に回したいくらいですが、どうせ泡のようなお金です。残ってません。
幸福感を言うなら、資金難の今の方がずっと幸せです。

どうでもいい話ですが、『「狂い」のすすめ』だけ、なんで明朝体で書いたのかというと、ワードで下書きしたからです。ワードは重いし余計な機能が多いので、ふだんは使いません。下書きするときはエディタを使ってます。ただ、ひろさちや氏の名前、全部平仮名で、うっかり間違って書くといけないので、ふだんは使わないワードで書いて、スペルチェック機能を使ってチェックしたのです。そのまま文章をコピーして貼ったら明朝体になってしまいました。読めればいいので、直していません。それだけの話です。(伊藤)