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「農山村ブーム」と言うけれど

「農山村ブーム」と言うけれど、実際に農山村に移住できるのは、資金や学歴や資格のある人に限られているのではないか、という指摘がありました。

資金がなければ、農山村に土地や建物を買うこともできない。
学歴や資格がなければ、もし農業や林業などがうまくいかない場合に他の手段で生活費を稼ぐこともできない。

結局、農山村に移住して第一次産業に就くというのは、資金があり、かつ、いざとなったら他の仕事で稼ぐ自信のある人だけにできることではないか、というご指摘です。

痛いところを突かれました。

私の場合は、あり余る資金があったわけではありません。資金的にはぎりぎりでした。
それに今は、学歴や資格があっても仕事に就くのが難しい時代です。

山里の古民家に転居して就農するのは、私たち夫婦にとってかなり冒険でした。

冒険には大きな危険がともなう時代です。
冒険に失敗したらどん底に落ちてしまうかもしれないという不安があります。多くの人は冒険をためらいます。そして、今いる職場などの、自分の所属にしがみつこうとします。

「家族を人質に取られているようだ」という新聞の投書がありました。もし今の職場を離れたら、再就職のめどもたたなければ他の収入のあてもない。今の職を失うというのは、家族を養うのが不可能になることであり、家族は人質と同じ。だから、どんなに上司から理不尽なことを言われようがひどい扱いを受けようが、職場にしがみつくしかない。家族が人質なのだから。というのです。
ひどい話です。

私は、どうでしょう。家族を犠牲にしたのでしょうか。
収入は減りました。でも、この不況下、どっちみち収入は減ったのです。
がまんして収入が減るのと、やりたいと思うことをやって収入が減るのと、どっちがいいか。やりたいことをしたほうがいいです。1度きりの人生ですから。

生活は質素そのものですが、妻も子どもたちも山里の暮らしを楽しんでいます。(伊藤)

『「狂い」のすすめ』

『「狂い」のすすめ』というのは、ひろさちやさんの本です。集英社新書から出ています。

それにしても、ものすごい題名ですね。まあ、題名なんて、なるべく過激に、センセーショナルにした方が売れるのでしょうけど。

自分で買ったのではなく、たまたま人からもらったものです。

なにげなくページを開いたら、興味をそそられ、一気に読んでしまいました。

ひろさちやさんは宗教、特に仏教についての本をたくさん書いてます。何百冊も書いています。そんなにたくさん読んだわけではないけれど、この本は、私が読んだひろさんの本の中で一番おもしろいです。

ふつう、誰も「狂い」を勧めたりしません。そのあたり、ひろさん特有の逆説的な皮肉なのかもしれません。

でも、読んでいると、ひろさんの言い分がまともに思えてきます。狂っているのは世間の方で、世の常識とされているものがかなり怪しく思えてきます。

「世間を信用してはいけません」

当然です。現在の世の体制・秩序に都合がいいように「世間の常識」というものがつくられ、押しつけられているのですから。戦争中であれば戦争中の常識が「世間の常識」だったわけですし、私の先輩たちが学生だった頃(1970年代)の常識と、私が学生だった頃(1980年代)の常識と、現在の常識だってだいぶ違います。

世間の常識なるものを前提に人生を賭けてはいけないんです。私が育った頃は、学歴があれば間違いない、資格があれば間違いない、だから目標を持って努力しないといけないと言われていましたが、そうした世間の常識は吹き飛びました。努力した人、高学歴の人、国家資格を持つ人が仕事にあぶれる時代になりました。

「目的意識を持つな!」

これも、すごいな。

わざわざ「!」までつけてあります。

著者は「たぶん現代日本では、九十九パーセントの人が金儲けを目的に生きています」と言います。九十九パーセントと言い切れるかどうかわかりませんが、相当の人が金儲けを目的に生きているのだろうと、私も思います。

多くの人にとって、進学先を選ぶのも就職先を選ぶのも、金儲けにつながるかどうかが基準。お金が儲かる企業や団体が一流の企業・団体とされ、そうした企業や団体に人材を送り込む学校が名門校と呼ばれます。高度な研究や教育をしている学校でも金儲けに結びつかなければ名門校とは言われません。中には結婚相手を決めるのも、住む場所を決めるのも、金儲けにつながるかどうかが基準という人もいるでしょう。

ひろさんが「目的意識を持つな!」と言うのは、こうした現状への痛烈な皮肉かもしれませんね。

「目的意識があると、われわれはその目的を達成することだけに囚われてしまい、毎日の生活を灰色にすることになる」とも言います。おもしろいです。

「人生は無意味」

そこまで言いますか。もっとすごいです。極めつけかもしれません。

私が下手にコメントすると誤解されるといけませんから、なぜ、ひろさちやさんがそこまで言うのか、ぜひこの本をお読みになってみて下さい。

「世界はすべてお芝居だ」

シェークスピアの言葉からの引用だそうです。「世界はすべてお芝居」という「世界劇場」の観念はヨーロッパに古くからあったのだそうです。人生はドラマだ、と、今でもよく言われます。私たちが生きるこの世界が舞台で、私たちは出演者。神様(あるいは仏様)がドラマの作者兼監督といったところでしょうか。

だとしたら、自分に与えられた配役に文句を言ってもはじまらない。

自分はつまらない役に当たったと思っても、実は、作者兼監督の深い配慮があってその役を与えられているのかもしれません。

ふつうの劇と違い、「世界劇場」では出演者は台本を渡されていないし練習もしていません。話がどう展開するかわからない、ぶっつけ本番の、その人にとって一度限りのドラマです。すごいですね。人生は壮大なドラマだという考え、楽しいじゃないですか。もちろん、人生には多くの苦しみもあります。そのことは、ひろさんも書いています。でも、世界はドラマであり、自分も出演者だという考え自体は、なんだか、わくわくしてきます。

福祉学生の頃、宗教改革者カルヴァンの著作集を読みながら、予定説という考えに腹を立てました。予定されているなら個人の努力に何の意味があるのか、重い障害を持って生まれてくる人も神の予定なのか、戦争も差別も独裁もみな神の予定なのか、それでも神は愛なのかと、私はカルヴァンに腹を立てたんです。

しかし、「世界劇場」と考えれば、神様(あるいは仏様)作の台本があるのかもしれません。だとすれば予定説は全面的に誤りだとも言えなくなります。作者兼監督はあんまりうるさいことを言わず、ある程度のアドリブを認め、見守ってくれているのかな、という気もします。

配役は自分では選べない、ひどいじゃないか、と言う人もいるでしょうが、生まれる前に打ち合わせして選んでいるのかもしれないのですよ。自分はそれを忘れているだけで。子どもは親を選んで生まれてくるという説さえあるのですから。

若い時に福祉を学んだ私は、ずっと「苦難の意味」を問い続けてきました。これを「世界劇場」という観念から考えてみることもできるのかもしれません。

他にも興味深い話がたくさん出てきます。

久しぶりに読みごたえのある本を読みました。(伊藤)

機械式カメラの魅力

カメラが欲しいなんて思うこと自体、物欲なのでしょう。この世の物欲など、超えられるなら超えたほうがよいとわかっているのですが、わかっていても、30年以上前の旧製品の中には魅力のあるカメラも多いです。

1990年代、東京に住んでいました。中古カメラ店のショウケースに並ぶFやF2は「内蔵露出計は保証対象外」と書いてあるものが多かったです。露出不良でも1台5万円以上しました。今、露出計も保証付きで半額くらいになっています(状態のよいものはもっと高いこともありますが)。

1959年にニコンFが発売されたとき、価格は大卒者の初任給の約5ヵ月分だったそうです。今の感覚だと、百万円くらいするカメラです。もちろんプロ用です。
1971年、改良型のF2が出ました。機械式一眼レフの最高峰と言われています。これも、たいへん高価なカメラでした。
中古とはいえ、こうしたカメラが、露出計付きの完動品で、私のヘソクリで買えるのです。往年の名機が激安です。

かつてのプロ用の最高機種がなんでこんなに安くなっているのかというと、一つはデジタルカメラの普及。それと、今では自動焦点・自動露出が標準になり、機械式マニュアルのカメラ操作が瞬時にできる人が少なくなってきたからというのもあるのでしょう。

機械式カメラは長寿命です。露出計以外に電気系統がないので故障が少ないし、万一故障しても直る率が高いそうです。

カメラ店の店員から「そういう故障は直りません」と言われたり、カメラ雑誌に「これこれの故障は直らない」と書いてあっても、調べてみると、直せる業者がいたりします。内部のミラーの剥落がいい例で、「ミラーの剥落は修理不能」と書いてあるカメラの本もありますが、私のOM-1は直って帰ってきました。日本にはまだ、いい意味での職人の意地のようなものが残っています。

「カメラなんて、写ればいいのに」と妻は言うんですが、1960年代~70年代の高級カメラには、ぜひこれで撮りたいと思う、わくわくするような魅力があります。

魅力の一つは、肝心なときに確実に作動する信頼性です(特に寒冷時)。撮影自体には電気を使わないので、電池切れの心配もありません。
もう一つは、被写体に向かう姿勢、精神でしょうか。写真撮影というものは、精神的要素も大きいようです。(伊藤)

ニコンFとF2

用事で山形市内に行ったとき、たまたま市内の中古カメラ店の前を通ったので寄ってみたら、かつての高級カメラの中古品がびっくりするくらい安くなっていました。意を決し、自宅に戻って財布にヘソクリを入れ、もう一度山形市に行って「ニコンF」と「ニコンF2」を買いました。どちらも学生の頃から憧れていた機種でした。F2は実用機、Fのほうは、まあ、趣味もあります。
ドキドキしながら、憧れのカメラをゲットし、ヘソクリも尽きました。ストラップをつけたいけれど、買うお金もありません。本当に、財布には小銭しか残らなかったのですが、私はニコニコ顔です。

両方とも露出計内蔵のファインダー(フォトミック)が付いていて、しかも6ヵ月の保証つきでした。約40年前のF2、それ以上前のF、それぞれ露出計まで保証するというのも驚きです。

「保証というのは、保証期間内に故障したら無料修理ということですね?」
と、店員さんに聞いてみたら、
「修理は難しいので、その場合は代金をお返しします」
とのことでした。
(あとからネットで調べたら、どちらもほとんど故障しないカメラだし、万一故障しても、露出計以外はかなり高い確率で修理可能とのことでした。でも、たぶん、修理にかかる費用が販売価格を越えてしまう恐れがあるので「修理は難しい」と言うのでしょう。つまり、「修理は難しい」というのは、修理不能という意味ではなく、無料で修理するは値段的に難しいということだったのでしょう。)

両方とも機械式のカメラなので、カメラそのものは電池不要です。電池切れを心配せずに撮影できて、予備の電池を持ち歩く必要もありません。機械式のカメラは、寒い夜の長時間露出(天体撮影など)にも有利で、今も現役で使われています。

最近のカメラは自動露出なので、「露出計ってなに?」って聞かれそうですが、カメラが手動操作だった時代、絞りに対するシャッター速度の最適値、またはシャッター速度に対する絞りの最適値を出すために露出計が使われました。1970年代以降、露出計内蔵のカメラが標準的になってゆき、さらに、電子制御によって、絞りを合わせるとシャッター速度が自動的に最適値なる(またはシャッター速度を合わせると絞りが最適値なる)の半自動化されたカメラも多くなり、シャッターそのものも電子制御になってゆきました。その後、焦点を合わせる作業まで自動化されてオートフォーカスと呼ばれるようになり、カメラはほとんど全自動になりました。
私は、「撮影者に残された自由は構図だけ」と言っています。

そしてとうとうデジタルカメラが主流の時代になりました。私はもう、ついていけません。
1980年代以降の電子制御化されたカメラは、フィルムを使うカメラも含めて、もう、ちっとも興味がわきません。

FとF2、どちらもカメラ自体は電池不要ですが、ファインダーに内蔵された露出計用のボタン電池だけは必要です。さっそく電池を買って来て、入れて、念のため露出を調べてみたら、2つとも正確で、実用に何の問題もありませんでした。安くなったとはいえ、さすがはニコンの最高機種です。

私は、「各種製品は新しいものから先に使えなくなる」と言っています。古い実用品は簡単に壊れません。
10年前のデジタルカメラで、今も使われているものがどれくらいあるのでしょう。1960年代、70年代の機械式カメラ(もちろんフィルムを使用)が今も実用品として使われているのに。

今では天下のニコンもデジタルカメラ会社みたいになってしまいました。日本のものづくりは何を目ざし、どこへ行くのか。日本だけでなく、世界のものづくりはどうなってゆくのか。短命の量産品を次々にモデルチェンジしながら大量供給し続けるつもりなのか・・・・・。

それでもニコンはまだいいほうです。ニコンという会社は古くからのユーザーを大事にしていて、デジタルカメラになっても以前からのマウント(レンズの差込口)の形状を変えていないし、フィルムを使う古いカメラも、可能な限り修理に応じてくれます。そして、驚きですが、FやF2の「使用説明書」は今も増刷されていて、一部700円で売られています。私もさっそく取り寄せました。

機械式のSPとかF2とかFM2とか、今も欲しがっている人もいます。採算の問題があるのでしょうが、そうしたカメラ本体も生産を続けてくれるといいのに、と思います。(伊藤)

状況の変化に合わせた対応が必要?

このところ藤巻健史さんを批判するような話ばかりで申し訳ないのですが、私が正面から否定する剥き出しの資本主義、弱肉強食の資本主義、小泉・竹中「改革」路線、アメリカ合州国を頂点としたグローバリズム等々を擁護する主張に思えますので、もう少し書きます。

氏の著書『日本破綻』に、変化への対応が必要であるとして、こんな例がありました。
携帯電話が普及していく時代に固定電話にこだわり、社員に携帯を使わせない会社があったら、その会社は非能率で競争に負けていく、という例です。
これはたとえの一つでしょうが、最近の急激な状況の変化は携帯電話のたとえどころではないですし、たとえにしてもこんな例を挙げるところに藤巻さんの価値観があるようだから、少し、思うことを書きます。

私は建築の分野で働いてきたので、ここ20年くらいの建築の変化を見てきました。
住宅建築に関して言えば、技術の進歩どころか、恐ろしいくらいの技術の低下を感じています。
もちろん、20年前だって粗悪な建築はありましたが、それは一部の不心得な業者のすることでした。今は、ていねいに造らないのが標準みたいになりました。

工賃の安さもあります。
卵が先かニワトリが先かみたいな話ですが、プレカットや新建材の普及で、職人が判断しながら手作業でやる仕事が減りました。判断できる職人が減ったから、判断しなくともいい素材が広まった、とも言えます。そうした中、職人の経験や技術を発揮できる場が減りました。つまり、建築の作業に従事する人は誰でもかまわない時代になったのです。経験のない派遣社員でも学生のアルバイトでも誰でもいいのです。低賃金でいいのです。経験がなくても出来る仕事が多いから、経験豊富な職人も同じように低賃金で使われるのです。

どこに、経験を積んで技術を身につける喜びがあるのでしょう。
仮に努力して技術を身につけても、発揮できる場がほとんどありません。

円高対策をすれば、輸出が伸びて国内の雇用の場は増えるかもしれませんが、人の技術を不要とする状況の改善にはなりません。ベルトコンベアーの前で、輸出用の製品をただ黙々と組み立てる。人がロボットの助手をしながら黙々と組み立てる。次々にモデルチェンジされるので、コツを覚えた頃にはまた次の製品がくる。今度はそれを言われた通りに組み立てる。次々に変化するので経験が役に立たない。
そうやって経済が成長して楽しいですか?

今はいろんな分野で、技術を身につけて発揮する喜びもなければ働く喜びもないような状況です。人は幾重にも管理され、がんじがらめにされて生きています。生きづらい世の中です。これが、進歩発展がもたらした結果でしょうか。

それでも、状況の変化に合わせた対応が必要なのでしょうか?
今はこういう状況だから、合わせていかないといけない。
状況の変化に合わせた対応ができなければ負ける。
携帯電話を否定する企業が負けるように、
新建材を否定する工務店は負ける、
オール電化を否定する工務店も負ける、
近代化を否定する企業は負ける、
状況の変化で「消費は美徳」とされる世の中ならそれに対応し、エコロジーが主張される世の中ならエコであるふりをし、人の生き甲斐や長期的未来には目をつぶり、カメレオンのように身を変えながら生きていかないといけない。
技術を身につけるのが無意味とされる世の中なら、それに合わせないといけない。
人を奴隷のようにする世の中なら、それを認めないといけない。
そうやって、産業をますます発展させ、資本主義を発展させ、経済をどこまでも成長させ続けないといけない。そうしないと、働く場もなくなる。
そういうことですか?
そこまでは言っていないと言われそうですが、藤巻氏の資本主義の理論をつきつめれば、そういうことになりませんか。

あるべき体制は純粋な資本主義で、働く人は企業などの一員になって給料をもらい、そのお金で生活する。生活に必要なものは食料も含めて全てお金で買う、というのが前提の考えです。

私はそういう前提から離れました。(伊藤)