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世間

「世間てなんだろう」という話を妻としました。妻は、「世間というのは、家族や親戚などの一部が物事に反対するときにだけ使う言葉で、実体は無いんじゃないの」と言います。これは、ズバリ本質を突いた言葉だと思いました。たしかに、賛成するときに誰も「世間がどうの」とは言いません。
私たちは、「世間がどうの」を振り切って田舎の山里に引っ越して来ました。振り切ってしまえば「世間」は追いかけて来ません。
なんだか、「世間」も「お化け」も話に聞くだけで、あったためしがないと思えてきました。
もちろん、相手や社会に対する配慮は必要ですが、実体のはっきりしない「世間」や「お化け」を恐れ、萎縮することはないのです。自分の一生です。「世間」を気にして本当に望むことをやらずにいたら悔いを残します。

べつに太宰治が好きなわけではありませんが、太宰治も「世間」とは何か気づいていたようで、こんなふうに書いています。『人間失格』から引用で、日頃の生活態度を堀木という人から叱責された箇所です。

 世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、
「世間というのは、君じゃないか」
 という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。
(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(今に世間から葬られる)
(世間じゃない。葬るのは、あなたでしょう?)
太宰治著『人間失格』より
(伊藤)

いいものをつくるために

大企業や老舗の業者や有資格者の不祥事が続くと、管理を強化することで品質を確保しようとする動きになるのですが、私は、そういう発想は、そもそも誤りだと思っています。

管理の強化で品質を向上させようとしても、むしろ偽装や手抜きなどの不正を巧妙化させるだけではないかと思うのです。
大臣認定品の認定書を提出させるやり方も、そもそも認定を得るための試験の段階で偽装があったりするのですから、お話になりません。

ヨーロッパには古い教会建築が残っているし、日本にも見事な神社仏閣の数々がありますが、そうした優れた建築を建てた人たちは「管理の強化」でいいものを建てたのでしょうか?
否です。煩雑で膨大な書類の提出や厳しい工程管理でいいものを建てたのではありません。
いいものを造った原動力の一つは信仰だと思います。本気で神や仏を信仰していたから、不正などできなかったのでしょう。さらに、その建物を使う人たちへの思いや、自分の職人としての誇りもあったのでしょう。そもそも、偽装や手抜きとは無縁の世界でした。

伊勢神宮の近くで参拝者たちに大福餅を売る業者に、参拝に来てくれた人たちへの敬意や伊勢神宮の神様への信仰心があったら、不正なことをしたでしょうか?
利潤追求が第一になると、人への敬意も神への信仰心も吹き飛んでしまうようです。相手のことを思ったり、感謝したりするより、産業としての効率化・合理化の方が大事になっていくのです。
産業社会の企業活動にとって、利潤追求こそが神です。そのために、人間らしく生きることを犠牲にしても効率化・合理化が要求されます。企業の論理が最優先で、人に対する敬意や神仏に対する素朴な信仰など、どこかに吹き飛ぶのです。
今後、食品会社に対し、法律による表示義務の強化や保健所などによる管理の強化がなされたとして、それで品質が向上するのでしょうか。
偽装や手抜きなどの不正が巧妙化するだけの可能性もあります。

どの分野の事業あれ、管理が強化されれば、そもそも不正とは無縁だった少人数の小さな事業所まで、雑務がうんと増えて事業に悪影響が出るおそれもあります。不正などしたことのなかった事業所が、「不正防止のための管理」が強化されたせいで手間が増え、やむを得ず品質を低下させたりしたら完全に本末転倒です。

外から人を管理して、いいものをつくらせようという発想が、そもそも間違いなのです。
つくる側が、内なる心から動かなければ、いいものはできないと私は思います。

ほんの数十年前まで、地域のことは地域の業者が中心にやっていました。
大工さん、左官屋さん、建具屋さんなど、地域の人たちから信頼されていたし、いい仕事をしてくれました。下駄屋さんもあったし、豆腐屋さん、味噌屋さん、団子屋さんもありました。自家製のものを売っていました。地域の人たちと顔の見える関係でした。お客さんは顔見知りの人で、地域の人の信頼を失うようなことは出来ないし、自分たちも家業に誇りがあったろうと思います。
それが今では、日常の細かなことまで、企業が供給する物品やサービスに支配される時代になりました。なかなか、お互いの顔が見えません。全国どこに行っても金太郎飴のような、マニュアル通りの対応があるだけです。しかも、自分が企業の論理に支配されていることに気づいていない人も多いです。

管理を強化することで品質を確保しようとするのも企業の論理の一つでしょうし、官公庁までそうした企業的発想の影響を受けているようですが、こうした発想それ自体、根本から人間性に反しています。
産業文明もそれを支える資本主義社会も、実は、根本から人間性に反しているのかも知れません。

余談ですが、6月20日の建築基準法の「改正」で、設計者に対する管理がうんと強化されるようになりました。これも発想が根本から間違っていますから、この「改正」で建築が悪くなることはあっても良くなることはまずないでしょう。(伊藤)

未来へ

考えてみれば、未来に対する明るい予測の根拠など何もないのに、山里に暮していると何だかほっとして、安心するから不思議です。これは、自然との関係、地域の人たちとの関係に、安心感があるからだろうと思います。

家もそうです。昭和初期の民家ですが、戸の口(玄関)から入ると土間があり、自家製の薪ストーブが燃えています。板の間があり、囲炉裏があります。自然素材の家で、焚き物で暖をとる暮らしに、太古から自然と共に暮してきた連続性を感じるからかもしれませんが、ここに帰って来ると安心します。どんなに子どもたちが騒いでいても、安心します。

そして、畑です。土はつくるものではなく、できるものだと思います。もともと合成農薬を使ったことはありませんが、福岡正信さんや川口由一さんらの著書に出会ってから、機械で耕すのをやめ、買った肥料を施肥するのもやめました(自家製の完熟堆肥だけ、作物によっては加減して使っています)。せいぜいクワで畝(うね)を直すくらいで、あとは不耕起栽培です。
畑がある、しかもその畑は、企業が供給する農機具、農薬、化学肥料などの物品に支配されていない、というのも安心の理由なのでしょう。
この畑の作物が、春、夏、秋の食卓に上ります。秋遅くに青菜(せいさい)を塩漬けして冬の食料にしますし、秋に収穫した大根や白菜は長期保存できますから、これも冬の野菜になります。なにも真冬にキュウリやトマトを食べる必要はないのです。
ある程度は、食料を自給している、というのも安心です。

来年からはいよいよ、近くの田んぼの手伝いをさせてもらうことにしました。近所の稲作農家はどこも高齢で、助手を欲しがっているし、私は稲作を覚えたいし、どっちにもいいのです。いつかは、自分の田んぼを手にし、お米を自給するのも私の目標の1つです。

ほんの20~30年前まで、産業社会はバラ色の未来を描いてきました。しかしながら、到達しないどころか、どんどん色あせてゆく現実を見ます。
科学や産業の発達が不十分だからではありません。それどころか、もうこれ以上発達させなくてもいいくらいまで来ています。これ以上の発達は、人類の生存を脅かすような環境破壊や今までになかった問題を引き起こすことでしょう。
産業が資本家によって独占されているからでもありません。過去の、そして今の社会主義の現実を見てください。
教育がいきとどいていないとか、情報が公開されていないとか、みな、ハズレです。こんなに進学率が高くインターネットも普及した今の日本で、バラ色の未来に到達しない理由にはなりません。

科学や産業の発達は、そもそも初めから、バラ色の未来には向かっていなかったのです。
科学技術が発達し、産業社会が到来しました。そしてこの産業社会は、今現在と近い未来の自分たちの利益のことしか考えていません。人類全体のことや、五十年、百年先の展望など、まるで眼中にないのです。
産業社会の中で、私たちは、目先の利益、目先の便利さと引き換えに、環境や未来を消耗させながら、人間らしく生きることを、少しずつ削り落としてきました。私たちの父母、祖父母が手作りしていた日用品や日常の食事、地域の職人たちが手作りしていた住宅や家具、生活用品の数々まで、産業が供給するものにかわってゆきました。
自分でも気づかないうちに、生活も、精神面さえも、産業を担う企業の論理に大きく影響され、支配されてきました。
私や妻が、便利なはずの街中の暮らしの中で感じた居心地の悪さの正体は、そこにありました。
人間らしく生きることを、少しずつ削られる日々だったのです。

産業社会の現状を、ある人たちは無批判に受け入れ、ある人たちは仕方なく受け入れ、ある人たちはストレートに受け入れることができずに悩み傷ついています。
今現在と近い未来の自分たちの利益のことしか考えていない産業社会に身を置きながら、それでも自分の責任をまっとうしようとする人たちは苦しむのです。まだ人間性が壊れていないから、相手のことを人間だと思うから、他者を、自社や自己のための利潤の道具と割り切ることができません。海外の人や資源や地球環境を、自社や自己のためならどう使ってもいいと割り切ることもできません。だから、苦しむのです。そうやって苦しんでいる人が、「それはお前の弱さだ」とか「そんなんじゃあ企業人として失格だ」とか言われるわけです。もっとも、何も悩まずに割り切っていられるようなら、かなり人間が壊れているのでしょうから、そっちの方がもっと気の毒ですけれど。

人間らしく生きる、人間であることを回復する、そういう方向を定めることで、私は安心を得ました。
その結果が、低所得だろうが、人から「負け組」扱いされることだろうが、もう悔いはありません。

もちろん、矛盾もあります。山里暮らしにはジープのような自動車やチェーンソーのような道具が必要で、それらは産業が供給する物品です。でもそれは、今の現状で他に選択の余地がないからそうしているのであり、今後の状況の変化により、より環境への負担が少ない方法を選択できるようになれば、選択を検討できるでしょう。
私は現時点での矛盾を承知の上で、人間らしく生きる未来へ向かって進みたいし、そのつもりで動き出しているところです。(伊藤)