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よりかからず

何の家柄も財産もない人間が地方にいて、一切の官職に就くことなく、大企業や大組織の一員にも、金持ちや偉い人の手下にもならず、学や政治の力とも無縁に生きようとすれば、待っているのは貧乏暮らしです。そういうわけで、私も貧乏暮らしの一員ですが、山里の古民家のつつましい暮らしの中で感じるのは、このうえない解放感です。

ますます進む格差社会。都市部と地方の格差も激しく、地方の名もない人間が、何の権威にもよりかからずに生きようとすれば、もう貧乏十八番と笑うしかない状況です。
しかし、かがんで権威に屈し、上のご機嫌をうかがい、言いたくないことを言い、やりたくないことをやって安定した暮らしを求めるくらいなら、凛として自分の足で立って、自分の言葉で語り、貧乏十八番で暮したほうがいい、それで、いったい「なに不都合のことやある」、と思うのです。

わが家の暮らしは質素そのものですけれど、最初から不足と思わなければ何の不足もなく、不満と思わなければ不満もないわけで、四季折々の自然の風景を眺めながら、静かに微笑んでいられます。
『平家物語』の冒頭だの、旧約の『コヘレトの書』の言葉だのが頭に浮かんでくるのは、この世の栄華の虚しさを感じているからかもしれません。
私がよりかかるのは、まあ、せいぜい、中古屋で買った椅子くらいです。(伊藤)

権威主義的パーソナリティー

かつてヒトラーのナチス党を支持したドイツの大衆と、ブッシュ大統領のイラク攻撃を支持したアメリカの大衆、そのブッシュ氏に追従する小泉政権を支持した日本の大衆に、共通する何かを感じ、寒気がしておりました。大衆をたくみに煽動する権力者の声と、同調するマスメディア、煽動者を支持する大衆の熱気に、理性の声がかき消されてしまう不安がありました。しかし、その共通するものが何なのか、その頃うまく言葉で説明できずにいました。

最近になって、冷静な頭で考えてみると、大衆が権威主義的パーソナリティー(=権威主義的性格傾向)を形成する方向に引きずられた、というのが共通点ではないのかと思えてきました。
権力の側は、大衆を煽動するパフォーマンスが上手でした。マスメディアも権力に引きずられ、また、権力側にのせられた大衆に迎合し、どちらにもいい顔をして権力批判を控えました。世論はうまく誘導され、相互に誘導し合い、メディアも大衆も、権力側に引き寄せられて行きました。

権威主義的パーソナリティーについて、ドイツ出身のアドルノが、ナチズムを支持した大衆の心理を分析してみごとに指摘しています。(ちなみにアドルノはアメリカに亡命したユダヤ系ドイツ人で、社会学者・哲学者・音楽家という多彩な人です。)
彼は権威主義的パーソナリティーの次のような傾向を挙げています。

 1. 強いものに柔順で、弱いものに強圧的になる。
 2. 偏見や差別意識にとらわれやすい。
 3. 自分が所属している集団に対する帰属意識が極端に強い。
 4. 善か悪か、敵か味方かという二価値判断におちいりやすい。
 5. 思考が紋切り型のステレオタイプである。
 6. 人間を内面でなく肩書きなどの外面で評価する。
 7. 縦の上下関係に敏感である。
 8. 権力や金力を正義と結びつけやすい。
 9. 人間を手段としてあつかうことに平気である。
 10. 容易には人を信用しない。
 11. 理想に対しては冷淡な態度をとる。
 等々。

いるなあ。こういう人、いるなあ。と思います。
これは「傾向」だから、すべて文字通りでないにしても、ナチス政権、ブッシュ政権、小泉政権などを強く支持した側には、こうした傾向があったのではないか、と思えます。これが大きな流れになって、反対意見が少数意見になってしまい、一般大衆も流れに引きずられて行ったのではないか、と思えるのです。

権威主義的パーソナリティーの強い傾向としては、ファシズムや社会主義政権下の「忠良な」国民、原理主義の宗教、カルト、極左団体、極右団体、種々のセクトなどが挙げられるでしょうし、度合いはともかく、今の日本にも、ある程度こうした傾向がみられることがあります。

アドルノは、権威主義的パーソナリティーを数値化する尺度としてFスケール(=F尺度)を提唱しています。質問に対して「そう思う」程度を5段階で答えてもらい、回答者がどれだけ権威主義的か数値化するんだそうです。Fスケールの質問群を読んでみると、保守派の政治家が賛成しそうなことが並んでいて興味深いです。たとえば・・・・・、

「権威に対する尊敬と従属は、子供たちが学ぶべき最も重要な美徳である。」
「自分の両親に対して、心からの尊敬、感謝、愛を感じないような人間はほとんど最下等の人間である。」
「現代の社会問題の大部分は、われわれが何とかして非道徳的で精神の歪んだ意志の弱い人々を取り除くことさえできるならば、解決されてしまうであろう。」
「もし人々がもう少し口を慎み、もう少しよく働くならば、すべての人々の暮らし向きがよくなるであろう。」
「人間は、弱者と強者という二つの種類に分けられる。」
「 若者に最も必要とされているのは、厳しい紀律であり、断固とした決断であり、そして家族と祖国のために働き、闘おうとする意志である。」
「今日では、あまりにも多種多様な人々が動き回り、きわめて深く混交しているので、人は彼らから感染させられたり、病気をうつされたりしないように、特に注意深く自分を守らなければならない。」

ね、保守派の政治家やある種の人たちが「おおいにそう思う」って賛成しそうでしょ。

この権威主義的パーソナリティーと、正反対の側に位置する意見表明の1つに、茨木のり子さんの「倚(よ)りかからず」という詩がありますから、引用します。

倚りかからず
              茨木のり子

 もはや
 できあいの思想には倚りかかりたくない 
 もはや
 できあいの宗教には倚りかかりたくない
 もはや
 できあいの学問には倚りかかりたくない
 もはや
 いかなる権威にも倚りかかりたくない
 ながく生きて
 心底学んだのはそれぐらい
 じぶんの耳目
 じぶんの二本足のみで立っていて
 なに不都合のことやある
 倚りかかるとすれば
 それは
 椅子の背もたれだけ


『倚りかからず』筑摩書房より

(伊藤)

運動会で思ったこと

先日、ふもとの小学校の運動会がありました。小3と小1の、うちの長男・次男が出場し、私もPTAの役員もしていて、運動会の手伝いと応援に行ってきました。
全校児童が80人と少しの小さな小学校で、児童数よりお客さんの方が多いです。田舎ですから、観客は持参したテントやパラソルを広げ、簡易テーブルを置いたりシートを敷いたりして、家族ぐるみで応援です。親戚が山形市や仙台市から来てくれたという家族もあって、なんか、すごいです。
たいてい、お昼ごはんを重箱に入れ、飲み物も持って来ていて、田舎の運動会は昔の運動会のようです。

競技も白熱で、小学校の運動会でここまでやるのかと思うくらい、熱気があって、迫力満点です。うちの子たちも真剣そのもので、長男は綱引きで負けたときなど泣いて悔しがっていました。児童も観客も、みんなで気分を盛り上げていくような雰囲気があります。

お昼は、うちも、家族でシートを広げ、妻が持って来てくれた重箱のお昼ご飯を食べました。妻と私、小3と小1の男の子、1歳9ヶ月を過ぎた娘の5人、それにまわりの人たちも会話に加わって、わいわい、がやがやと、お昼ご飯です。田舎暮らしのほんの一コマですけれど、何だか、妙に、幸せを感じました。そして、できるなら、平穏な時代がずっと続いてほしいと思いました。

つつましく生きたほうが、幸せだと思うのに、なぜ人は豊かさを求めるのでしょう。変化などしなくていいのに、なぜめまぐるしい変化の中にいるのでしょう。豊かさの追求も止まらない変化も、幸せをもたらすどころか、人を過度に忙しくして、ばらばらにして、追い詰めていく現実を、私はこれまでずいぶん見てきました。

田舎暮らしを始めてから、私も妻も、気分がかなり楽になりました。
豊か過ぎなくていいのです。毎年同じように季節がめぐる中で、毎年同じように暮していけたら、それでいいのに、と思うのです。

見上げれば、はためく万国旗の上に、秋の青空が広がっていました。私が子どもの頃と何も変わらない、ありふれた田舎の青空が。(伊藤)