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天の父の御心にかなう人々に救いがある

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「キリスト教徒とユダヤ教徒がこんなひどいことをしてしまって、本当に申し訳ありません。」

「いいえあなたのせいではありません。あなたは愛と平和を説きましたが、従わない人たちがいるのです。あなたの教えだと、愛と平和の教えに従わない人でも唯一の創造主を信じていれば皆救われるのですか?」

「いいえ。聖書に記されている神を信じているから救われるというのではありません。『天の父の御心にかなう人々』に救いがあるのです。攻撃してくるキリスト教徒やユダヤ教徒らは、『私は聖書に記されている神様を信じています』と言うでしょう。しかし、その日には、私は彼らにこう言います。『私はあなたたちをまったく知らない。不法をなす者ども、私から離れ去れ』と。この攻撃は、私への攻撃と同じです。私を攻撃する者たちは、断じて聖書信仰者ではありません。」

(伊藤一滴)


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隣人(となりびと)とは誰なのか


ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。(ルカ10:30より)

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「サマリア人のあんたが、ユダヤ人の俺を助けるのか」

「こんなときに、サマリア人もユダヤ人もあるもんか。すぐに応急処置をして宿に運ぶからな。さあ、しっかり」

「あんた、いい人だな。あんたみたいな人が通りがかってくれて助かった。ありがとよ」

「なあに、いいってことよ」

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(伊藤一滴)


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「偶然に出来るはずはない」から進化論は間違っている?(再掲)

 

一見科学的なスタイルで進化論を否定する言説がネット上にいくつもある。執筆者(動画の場合は話者)は、たぶんキリスト教原理主義者で、原理主義の立場から語っているのだろうが、宗教色を出さないようにして、まるで科学的な見解であるかのように進化論を否定する。

彼らには最初から答えがある。先入観なしに論じるのではなく、自分たちが思い込んでいる答えに至るように話を持って行く。

科学的に論じているかのように装い、宗教色を出さずに自分の宗教を語るのは、やり方として卑怯だ。宗教色を隠して接近してくる統一協会のようだ。

見分け方がある。

宗教を前提に語っている場合、たとえ科学を装っていても、「高度で複雑な生物が偶然に出来るはずはない」とか「偶然に出来るとは考えられない」といった言葉が出てくる。
何らかの意思が働いていると言いたいのだ。神という言葉を使わなくても「神の働きに違いない」と言いたいのだ。

「偶然に出来るはずはない」のような言い方は、科学ではない。
偶然かどうかは、その人の主観でしかない。科学を論ずる場に主観を持ち込むのは科学ではない。科学のふりをしたエセ科学である。

これまでの実験や観察の積み重ねで明らかになっていること、必ずそうなること、再現実験可能なことであれば、こうすればこうなるのは必然だと言える。でも、必然だと客観的に断定できないことにまで「偶然に出来るはずはない」などと言いだすのは、どんなに科学っぽく論じていても科学ではない。

「偶然に出来るはずはない」の他にも、

「確率的にあり得ない」、

「設計図なしにできるはずがない」、

といった言い方が出てきたりする。


「確率的にあり得ない」? 
たとえば、「我が家に隕石が落下するなんて確率的にありえない」って言えるんだろうか?(隕石が落ちるのも落ちないのも神様の予定? 神様が予定しているなら私たちが日々の安全を祈っても無意がない?)
どんなに確率が低くても、確率的にあり得ないように思えても、起きるときには起きる。起きないという客観的な証拠なしに確率からあり得ないと断ずるのはその人の先入観・思い込みでしかない。

「設計図なしにできるはずがない」?
適さないものが淘汰されれば適するものが残る。最初から適するものだけあったのではない。だから設計図はいらないと考えることができる。
どうしても設計図を想定するのなら、「生物の進化も神の設計図による」という主張も可能になる。進化論を認めたからといって神の存在を否定することにはならない。今日、主流派のプロテスタントも、カトリックも、進化論を認めた上で神の存在を信じている。

だいたい「進化を認めるか否か」と「イエスの教えに従うか否か」とは何の関係もない。

統計があるわけではないから私の主観だが(だから科学ではないが)、どうも、イエスの教えに従わない自称「クリスチャン」たちの中にムキになって進化論を否定する人が多いような気がする。
イエスの教えに従い隣人愛に徹する人たちは、進化論がどうだこうだと人に絡んできたりしない。イエスに忠実な人たちは、心の中で進化論を認めているかどうかに関わらず、信仰と科学は次元の違うものだと考えており、信仰と科学を混ぜこぜにしたりしない。進化論の是非を語ることに大きな労力を費やしたりしない。
「進化論は間違っています!」とムキになる人たちは、イエスの教えより自分たちの先入観を優先しているようだ。

私が出会った進化論否定論者は怖い人が多かった。ちょっとでも批判すると逆上し、怖い目で睨みつけられた。感情むき出しになって食ってかかってくる人もいた。まるでチンピラのようで、あれがクリスチャンなのかと呆れもした。

それでも「私たちは聖書を信じるので進化論を否定します」と言う人たちは正直で、まだましなほうだ。科学的に論じているかのように装い、宗教色を出さずに進化論を否定する「クリスチャン」たちはタチが悪い。

進化論について語る中で、「偶然に出来るはずはない」「確率的にあり得ない」「設計図なしにできるはずがない」その他これらに類する言葉が出てきたら、それは科学ではなく宗教、または宗教色を隠した宗教である。科学のふりをして自分の宗教的な思い込みを語っているだけである。

(伊藤一滴)

参照:進化論を否定する「クリスチャン」たち(再び)
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2020/08/post-50a2.html


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隣人とは誰?

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道で倒れている人がいたら手を差し伸べる
― それは普通のことです。
(中村哲)


隣人とは誰でしょう?

同じ国の人ですか。

同じ民族の人ですか。

同じ人種の人ですか。

同じ宗教の人ですか。

同じ利害関係の人ですか。


「隣人とは誰なのか」が分からない人に「私は聖書の教えを信じています」なんて言ってほしくありません。

(伊藤一滴)


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これまでのこと(別のAIの画像で再現)

先に、これまでのことをAIに描いてもらいました。

http://yamazato.ic-blog.jp/home/2026/02/ai-fa04.html

別のAIを使って同じ場面を描いてもらいました。今回使ったのはグーグルのジェミニです。

リアルな画像ですが、実物の写真ではありません。過去のイメージを再現した合成写真です。
先にチャッピーに描いてもらった画像とはだいぶ違いますが、これらも見事です。

Photo_4 独身の頃、妻(当時は彼女)は勉強家でした。(今もそうです。)

Photo_2祈る人でした。(今もそうです。)

Photo_5 障害のある子や病気の子のケアをしていました。

Photo_4 一般の病棟でも働きました。

Photo_5 私とよく話をしました。休みが同じ日に横浜に行って中華街で食事したこともありました。(注:こんなにたくさん食べたわけではありません。AIの絵が大げさです。)

Photo 夏、大磯に遊びに行ったこともありました。

Photo_6 この人と共に生きていこうと互いに決意しました。

Photo 結婚しました。

Photo_2 山形県の農村で暮らすようになりました。

Photo_3 子どもたちは山里の大自然の中で育ちました。

Photo_4 20年経ちました。長男は教育の道に進み、次男は農業に従事しています。娘は大学生になりました。

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画像はすべてAIに描いてもらったイメージです。文章は事実ですが、写真は私の記憶をもとにしたイメージの合成であり実際の姿ではありません。

AIがこういった画像を描けるようになりました。写真というものの意味が問われそうです。


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AI画像の突っ込み所

「独身の頃、妻(当時は彼女)は勉強家でした。~」
置いてある本のタイトルがバラバラです。何の勉強をしてるんでしょう? 最初の画像では手元に飲み物があったのですが、修正して消しました。図書館に飲み物を持ち込むのはよくないです。当時なかったスマホらしきものも見えますが、スマホと断定できないし、そのままにしておきます。

「祈る人でした。~」
日本語訳聖書で横組みのはあまりないです。別にいいですけど。

「障害のある子や病気の子のケアをしていました。」
彼女、ずっと同じ服ですね。セーターの上に、最初なかったブルーのエプロンを着用してもらいました。

「この人と共に生きていこうと互いに決意しました。」
これは素敵な画像です。本当にこんな感じでした。最初の画像だと手袋の上から指輪をしてたんで、いくら何でもそれはないので、加工して消しました。

「結婚しました。」
参列者が正面に背中を向けているように見えますが、この教会、どっちが正面なんでしょう。まあ、みんな回れ右してくれたのかもしれないので、このままにしておきます。

「20年経ちました。~」
長男も次男も20台半ばです。1歳数か月しか違わないんですが、長男がずっと老けてみえます。教育の場にいると、年齢以上に見えてくるのかもしれませんげど。

2026年当時のAI画像はこんな感じだったと、修正していない画像は私のパソコンに残しておきます。

(伊藤一滴)

信仰の論拠は聖書のみ?(再掲)

プロテスタントは「信仰の論拠は聖書のみ」と主張するが、実は、聖書(Scripture)以外に、伝統(Tradition 聖伝)、理性(Reason)、経験(Experience)などを用いて教えを説いている。だのに「聖書のみ」と言い続けることに、私は違和感を覚える。
しかも、この「信仰の論拠は聖書のみ」という記述自体、聖書にない。もし本当に「信仰の論拠は聖書のみ」なら、聖書にどこかにそう書いてありそうだが、どこにも書かれていない。

特に福音派は以下を強調するが、これらの言葉も、聖書にそのままの形では書かれていない。
「聖書は誤りなき神の御言葉である」「聖書には権威がある」「日曜は安息日である」「日曜の礼拝に信者は出席すること」「信者は禁酒せよ」
これらは聖書解釈によって導かれた見解であり、聖書にはっきり書かれた箇所がない。「聖書の教え」(=「神の教え」)は、理屈のつけようでどうにでもなる。
だから、「福音派は聖書のどこにも書かれていないことを言っているので反聖書的であり、間違った信仰です」といった主張も可能になってしまう。(理屈でそういう主張もできてしまうという話であり、私がそう思っているわけではないが。)
それに、新約聖書がまだ存在しなかった時代にもキリスト教信仰はあったのだから、「信仰の論拠は聖書のみ」とは言えないという主張も可能になる。
私はいろいろな人に「新約聖書がまだ存在しなかった時代のキリスト教信仰の論拠」について聞いたが、「信仰の論拠は聖書のみ」という主張と整合性のある説明を聞いたことがない。
新約聖書が成立する前の原始キリスト教の時代には、「旧約聖書」の記述と「口頭の伝承」(=口伝、口承)と「共同体の信仰」が信仰の論拠だったと考えられる。当時は「信仰の論拠は聖書のみ」ではなかったのだ。
どこまでも「信仰の論拠は聖書のみ」とするなら、新約聖書が成立する前は正しいキリスト教はどこにもなかったという話になる。
「新約聖書が成立する前は、パウロやイエス様の弟子たちが正しい教えを伝えていたのです」といった主張があるが、今日のような形の新約聖書が確立したのは4世紀の末である。紀元1世紀の時代を生きたパウロやイエスの弟子たちは4世紀の末まで生きて教えを説いていたのだろうか。「パウロや弟子たちの没後も正しい教えを受け継いで伝えた人たちがいました」と言うのなら、それはつまり聖伝(Tradition)だ。4世紀の末までは聖伝が有効で、新約聖書が確立した途端に「信仰の論拠は聖書のみ」に変化したのだろうか。
「信仰の論拠は聖書のみ」というのは宗教改革を進めるのに使われたスローガンであって、歴史的価値のある言葉であっても、今では成り立たない主張ではないのか。
(伊藤一滴)

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イラン攻撃の正当性?

今のイランがいい国だとは思いません。

イランは自国民を苦しめる国です。
反体制派を弾圧し、女性の権利を制限し、LGBTQ+の人たちを差別する国です。少数派宗教への抑圧も続きました。平和的なデモを暴力で抑え込む国です。警察官や刑務所職員らによる虐待・拷問も指摘されています。ウクライナを侵略するロシアに武器の供給もしてきました。
さらにこの国は、核兵器の開発を目ざしてきたとされ、事実なら世界にとって重大な脅威です。

しかし、だからと言って、アメリカとイスラエルがイランを攻撃してよいという理由にはなりません。


イランの最高指導者ハメネイ師が殺害されました。イラン国営メディアの発表によると、ハメネイ師だけでなく、師の娘、​孫、‌義理の娘、‌義​理の息子‌も攻撃により死⁠亡し⁠たとのことです。

女子小学校が爆撃され、小学生ら148人が犠牲になったと報じられています(読売新聞電子版)。犠牲者はもっと多いという報道もあります。(イラン軍が反撃した際の誤爆ではないかという指摘もありますが、仮にそうだとしても、原因を作ったのはアメリカとイスラエルです。)

他にも多くの死者、負傷者が出ているのでしょう。

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日本政府は、アメリカとイスラエルをまったく批判しません。
日本はこういうやり方を是認するのでしょうか?
どう考えたって国際法違反だし、イランの指導者や官吏らと関係のない人たちまで殺されているのに。


アメリカの「福音派」の多くはトランプ支持です。
イスラエル支持を表明する牧師たちもいます。日本にもいます。

「無辜の市民を殺傷して止まないトランプやネタニヤフを支持すること」と、「キリストに従うこと」は、果たして両立するのでしょうか?

Photo_2

私が思うイメージをAIに描いてもらいました。

(伊藤一滴)


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