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おすすめの新約聖書 日本語訳

日本語訳の新約聖書の中で、おすすめのもの。かつ、入手が比較的容易なもの。
個人訳以外は、ほぼ年代順。


「聖書 文語訳」(日本聖書協会/岩波文庫版の分冊あり)

文語体です。
漢字の読みは独特です。(ルビがなければ読めません)
よどみなく読むには、慣れが必要です。
現行の新約は大正時代の改訳です。
ネストレを参照して訳したとされていますが、欽定訳の影響を感じます。
名訳として高く評価されています。まあ、欽定訳が名訳ですから。


「聖書 口語訳」(日本聖書協会)

戦後間もない頃の訳で、文語から口語への移行期でした。それもあって、ぎこちない表現もあります。
ネストレを底本にして正確な翻訳に努めたそうですが、間違いなく、RSV(Revised Standard Version)を手元に置いて見ながら訳してます。
「アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、~」(マタイ1:2)。えっ、「父」なんて単語はないぞって思ったら、RSVがそう訳しています。
「もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。」(マタイ5:41)。マイルなんて単位はどっから出てきたんだって思ったら、RSVがそうなってます。
もしかして、底本はRSV? ネストレは参照程度?
翻訳はネストレに従っていない箇所もあって、それはそれで興味深い訳です。
「差別語、不快語」がよくないとされ、現行版は「改訂」されてしまいました。文語訳はそんな「改訂」をしていないのに。
読むなら改訂前の古書かネットで。
半世紀以上前の訳です。今日の目から見たらいろいろありますが、文学的にはともかく、正確な翻訳に努めたという点では評価の高い訳です。そして、翻訳者が参照しているRSV自体、評価の高い訳です。


「聖書 新改訳」(日本聖書刊行会)

読みやすいです。
会話の言葉づかいが丁寧です。他の訳と比べると、会話が一番まともかも。
福音派の訳で、福音派なりの見解もありますし、細かく見ればどうかと思える箇所もあります。でも、それを承知で私も愛用しています。
私の場合、小学生のときからこの訳を中心に読んできたんで、一番なじみがあります。口語訳、新共同訳、フランシスコ会訳などのイエスの言葉づかいは、「~である」調で、どうも尊大で居丈高に聞こえてしまい、抵抗があります。
旧新約の合本は引照と簡単な注がついていて便利です。チェーン式だともっと便利です。
初版、2版、3版、2017と改訂され、私見では、改訂されるたびに悪くなっていったように思えます。
これまで大量に出回ったんで、古書で旧版の入手も可能でしょう。
初版はネットでも読めますが、引照・注付きの紙の本がおすすめです。
新品で買うなら「新改訳2017」しかありません。以前の版は絶版です。


「聖書 新共同訳」(日本聖書協会)

これも読みやすいですが、イエスの言葉づかいは新改訳の方がていねいです。
例外もありますが、福音派を除くプロテスタントからカトリックまで、またキリスト教系の学校でも、広く使われてきました。
数年前まで最も出回っていた訳で、日本における標準的な訳でした。今は、「聖書協会共同訳」に移行しつつあるようです。
新共同訳は、口語訳聖書よりも意訳してます。正確さより読みやすさを優先したのかな。
初期版と後期版があります。初期版の「らい病」が後期版では「重い皮膚病」になってました。原文尊重と、現代における人権尊重と、どちらもふまえてどう訳すべきか、難しいところですね。
前身の「新約聖書 共同訳」(新共同訳ではなくて、共同訳)もあるんですが、もし見かけてもおすすめしません。極端な意訳で、ひどすぎます(※1)。「新約聖書 共同訳」は日本聖書協会版(絶版)と講談社学術文庫版があります。講談社さんまで、なんでこんなのを出したんですかね。それよりヘボン訳、明治元訳、ラゲ訳、永井直治訳でも出してくれればいいのに。


フランシスコ会聖書研究所「聖書 原文校訂による口語訳」(サンパウロ)

1950年代から翻訳が始まり、2011年に旧新約の1冊本が完成した、何とも気の長い翻訳です。1950年代に翻訳に参加した人はいくつになってたんでしょう。関係者の中には、完成を見ずに亡くなられた方もおられるんじゃないかと思います。
ヴルガタ(ヒエロニムスのラテン語訳聖書)からの重訳しかなかった日本のカトリックが、原文校訂(本文校訂)による口語訳を進め、長い歳月をかけて訳した見事な訳です。特に分冊版は注が充実していて、私も、とても勉強になりました。
しかし、翻訳にあまりにも時間がかかり過ぎて、その間に新共同訳も出て、どうしてもこの訳という意義が薄れたようです。見事な訳なのに、あまり売れていないようで残念です。修道会だから、採算を度外視してこの大事業を成し遂げたのでしょうが、商売として考えたらまったく割に合わないでしょう。それにしても、まあ、カトリックさんのやることは何とも気が長い。サグラダファミリアの建設みたいです。
新共同訳と似ている箇所がかなりあります。同じ人が両方の訳に加わっていますから。聖書を原文(校訂本)から訳せる人なんて、そんなにたくさん日本にいないんでしょう。
時間はかかりましたが、口語訳、新共同訳と比べても、見事な訳だと思います。
新品で購入して少しでも資金協力に参加したいと思い、私も、新約の分冊、新約の合本、旧新約の合本を買いました。
なお、このあまりにも長い翻訳の期間中、全体の完成の前に一部が改訂され、改訂前の方がよかったと思える箇所もあります。もし古書で旧版を見かけたら、買っておく価値があります。


「聖書 聖書協会共同訳」(日本聖書協会)

日本聖書協会の最新版です。
これは持ってませんし、立ち読み程度しか読んでません。
その程度で紹介するのもちょっと気が引けるんですが、思ったことを少しだけ。
本屋で見ただけですが、引照・注も含めて字の組み方は新改訳と似ています。視力が衰えてきた私の目で見ると、一瞬、新改訳かと思うくらい似てます。新改訳の引照は使いやすいんで、いい点をまねてくれたと思います。
イエスの言葉づかいは相変わらず「~である」調だし、訳者は気づいているだろうに先輩への配慮なのか聖書協会が求めるのか、誤訳の踏襲も続いています。もし、クリスチャンの学者による聖書翻訳が、先輩の訳を批判できない世界だったら、それ、どうなんですかね。
立ち読みしただけですが、ローマ書16章のユニアスの名がユニアになってました。独自の本文校訂でしょうか。フェミニズムを意識したのかも。
いずれ買ってじっくり読もうと思います。
たぶん、今後、この訳が主流になるのでしょう。
引照も注もないスタンダード版はおすすめしません。買うなら「引照・注付き」です。
引照も注もなしで聖書を読めるのは、よっぽどの達人だけでしょう。


田川建三訳「新約聖書」(作品社)

本文の訳だけの一冊本と、詳しい註のついた分冊があります。どちらも、高価です。
分冊は、他の訳の批判を延々と書かなければもっと薄くできたと思いますけどね。田川訳を読むような人は、他の訳に問題があることなど当然知っているでしょうし。
それと、ご自分で独自に本文校訂(正文批判)をなさっているようですが、ネストレと違う読みを採用した箇所は、ギリシャ語の文を載せてくれたらよかったのに、と思います。他の訳の非難を削ればそれくらいのスペースは出来たんじゃないですか?
配列も独自です。成立年代順でもないようです。年代順なら福音書よりパウロ書簡が先ですし。
一冊本も、ぱっと開けないんです。こっちは頭の中に、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、使徒、ロマ、コリント(1・2)、ガラテヤ書、エペ、ピリ、コロサイ、テサロニケ(1・2)、テモ(1・2)、テト、ピレモン、ヘブル書…って、鉄道唱歌の曲に合わせて順番が頭に入ってるわけだから、参照したいときに、ぱっと開けないのがちょっときつい(※2)。
まあ、言いたいことはいろいろありますが、これまで日本語に訳された新約聖書の中で、おそらくこの訳が最高峰でしょう。


前田護郎訳「新約聖書」(中央公論社)

入手または閲覧が容易なものとしましたが、これは例外で絶版です。でも、歴史的な一冊ですので紹介します。
無教会伝道者・塚本虎二門下の前田護郎の訳です。
前田護郎門下には佐竹明、荒井献、田川建三、八木誠一、川村輝典といった、日本を代表する聖書学者たちがいます。
前田訳は他の日本語訳聖書やRSV等の影響を感じません。そうしたものをまったく見ないで訳したんでしょう。注に訳者の信仰を感じますが、信仰を前提に訳すのがいいのかどうか、評価は分かれるでしょう。
前田護郎の師の塚本虎二の訳もありますが、独特の意訳箇所も多く、戦前や戦後すぐならともかく、今、あえて使うこともないでしょう。日本における聖書翻訳史やキリスト教伝道史の資料としての価値はともかく、聖書そのものの学びには、塚本訳はおすすめしません。塚本虎二訳「福音書」が岩波文庫から出ています。同じ岩波文庫から「使徒のはたらき」(=使徒行伝)も出てました(こちらは絶版)。


では、どの訳がいいのか。

決定版はありません。

訳文の信頼とコストパフォーマンスを考えれば、多少の問題点はあってもまずは日本聖書協会版からでしょう。
主流派のプロテスタント、カトリック、正教会はもちろん、福音派の人でも、非キリスト教の人でも、日本聖書協会版の聖書を読んで損はありません。

たぶん、今後の主流は、「聖書 聖書協会共同訳」(日本聖書協会)になるのでしょう。でも、もしかすると改訂版が出るかもしれません。いつだかわかりませんが。
新たに買うのであれば、引照・注付きを。旧約と新約の合本を買うなら、可能であれば旧約聖書続編付きを(所属教派の立場や自分の信条で旧約続編は認められないというのであれば仕方ありませんが)。

特に正確な訳を望むのであれば、田川建三訳です。けっこうクセがあるし、値段も高いです。
(旧約については、私はヘブライ語の知識がないのですが、これも信頼とコスパを考えれば、まずは日本聖書協会版あたりからでしょうか。他に有名なのは関根正雄訳です。正確さの追求であれば、新約は田川訳、旧約は関根訳でしょうか。)

福音派の訳を参照するのであれば「聖書 新改訳」です。福音派の訳だというので相手にしない人もいますが、新約を読む限り、ほとんどはちゃんと訳されています。口語訳や新共同訳よりうまく訳していると思える箇所もあります。私の個人的な見解ですが、2017版よりも旧版のほうがよい訳です。

英訳を参照するなら、まずは RSV(Revised Standard Version)でしょう。
英国欽定訳は、初版が1611年と古いのですが、現代表記に直したものなら今も普通に買えます。どういうわけだかアメリカ人は King James Version(KJV) と呼び、イギリス人は Authorized Version(AV) と呼ぶことが多いようです。
欽定訳の新約の底本がTRなんで、底本自体が一部不正確なんですが、ギリシャ語を忠実に訳そうとした努力を感じます。箇所によっては、RSV よりうまく訳していると思います。先行するティンダルの訳があったからでしょう。「聖書を英語に訳した罪」によって処刑されてしまったティンダルは、偉大な人でした(※3)。

何度も言いますが、聖書の訳に決定版はありません。

(伊藤一滴)


※1 余談になりますが、日本でも、特に1970~80年代、ユージン・ナイダらの理論の悪影響を受けて、ひどい訳の「聖書」が出回りました。原文から離れ、極端な意訳に走り、さまざまな含みのある表現を1つの意味に限定したりして、とても訳と呼べないようなものがありました。そうしたものは文の書き換えで(つまり改竄で)、聖書の翻訳というより聖書風の作文でした。底本どおりでもなく、独自に本文校訂したわけでもなく、自分たちの好みで適当に書き換えて「訳」と称したのです。
比較的信頼できる訳文(口語訳、新共同訳、フランシスコ会訳、新改訳など)と比較し、全体的にあまりにも違う訳があれば気をつけたほうがいいです。
「新約聖書 共同訳」(旧共同訳)もひどいのですが、もっとひどい「訳」もありました。まともな訳と比較すればわかります。特に、他教派の見解を否定するためにあちこち書き換えた「訳」など、論じるにも値しません。
昔は、「聖書を翻訳した罪」によって処刑された人までいたんです。聖書の本文校訂に従事した人たちや、一語一語を大事に翻訳した人たちの血の滲むような努力を思うと、「何がナイダ理論だ、ふざけるな」と言いたくなります。

もう少し、詳しく書きます。
ナイダ理論を言う人は、たとえば「雪のように白くなる」を南国の言語にそのまま訳したら、雪を見たことのない人には理解できなくなるが、「乳のように白くなる」と訳せばわかる、みたいなことを言うのです。原文に「乳」なんてなくても。
でも、乳と訳したのでは、雪の冷たさや透明感、そこから感じられる清らかさといった言葉の感触が失われてしまいます。
やはり、雪は雪と訳し、欄外に注をつけて、雪についての説明を書けばいいのにって、私は思いますけど。

「雪」を「乳」と置き換えても、それくらいはまだ、意訳の範囲内として許されるかもしれません。でも、原文に「霊において貧しい人たち」とあるのを、たとえば「心の貧しい人」とか「自分の貧しさを知る人」とか「謙遜な人」とか「神により頼む人」みたいに置き換えるのも意訳の範囲内なのでしょうか? 「霊において貧しい」では意味がわからないから、わかるように意訳すべきだと言いたいのでしょうが、それは訳者の解釈による意味の限定です。いろいろな解釈ができるのに、ある1つに絞り込むのです。それも、訳者の好みで。原文には、いろいろな含みがあるのです。そうした含みの幅を無視していいのかって思うんです。1つの意味に置き換えられた訳文しか知らない人は、幅のある含みを知らぬまま、1つの意味で覚えてしまうことでしょう。この箇所はこう解釈できるという注解を、本文の「訳」でやってしまっていいんでしょうか。注解書なら複数の解釈を併記することもできますが、「訳」ではそれもできません。
もう1つの例ですが、原文に「月に冒されて」とあった場合、これを「てんかん」と訳していいんだろうかって思います。聖書を書いたのは古代人です。古代の世界観の中で生きていた人たちです。病気の原因が科学的に解明されておらず、月の作用で体や心に不具合が生じる場合があると本気で考えていた人たちです。田川建三さんは「月化」と造語をつくって訳しておられましたが、これは、みごとです。月の病なんて訳すと婦人病や五月病と勘違いされるといけませんが、月化はみごとですね。月光病といった訳も可能かと思います。
てんかんも古代人にとってこの病気の1つでしょうが、月の作用と考えられた病気のすべてがてんかんではないのです。てんかんと訳すことで意味が限定されてしまいます。月の作用だとわかる訳語にした上で、注に「当時の人たちは月の作用で体や心に不具合が生じる場合があると考えていた」と書けばいいだけではないのですか?
ちなみに、「中風」(ちゅうぶ)は中風でいいと思います。中風は脳卒中の後遺症などによる身体の麻痺で、病名を限定しているのではないし、脳卒中という言葉だって、厳密な病名ではありませんから。


※2 他にも、マタ、マル、ルカ、ヨハ、使徒、ローマ…、とか、歌詞にいくつかのバージョンがあるようです。
私は、1983年、仙台市内の福音派の教会の牧師先生から教えていただき、覚えました。おかげで、旧約も新約も、題名を全部暗記できました。牧師先生、ありがとうございました。
先ほど、「聖書 鉄道唱歌」で検索したら、YouTubeに歌がありました。
https://www.youtube.com/watch?v=Er_eTFCoJ4g
旧約は私が習ったのとまったく同じ、新約は少し違うバージョンです。
なんだか、なつかしい。


※3 デイヴィド・ダニエル著、田川建三訳『ウィリアム・ティンダル ある聖書翻訳者の生涯』

Textus Receptus(TR、受け入れられたテキスト、公認本文)のこと

私が言うようなことでもないのでしょうが、Textus Receptus(TR)についてどう思うのか聞かれたので答えます。

聖書の原典は残っていません。写本しかありません。
長い歳月に渡って書き写された聖書は、歴史の中で不正確になってゆきました。中世の小文字写本は、参考程度にはなっても、現代の本文校訂(正文批判)の基本には使われていないとのことです。

「改竄された聖書」といった言葉はあまり使いたくないのですが、書き写す際のうっかりミスだけでなく、中世のカトリック教会の見解に沿う形で、写本への書き加えや書き換えもあったようです。
また、写本の筆記者が、解釈や感想を欄外にメモしたりすると、次の筆記者がそのメモを本文の一部だと思って本文に組み込んでしまうこともあったようです。ペンで手書きしていた時代、うっかり行を飛ばしたりすると、そのページを全部書き直すのは大変なので、抜けた行を欄外に書くこともあったのだそうです。そうすると、欄外に何か書いてあれば、それも本文の一部かと思われることもあったのでしょう。

想像ですが、たとえば、マタイ伝の主の祈りを書き写していた人が、この祈りに感動し、神を讃えて、欄外に「国と力と栄えとは、限りなくあなたのものだから」と書いたとします。次にその写本を書き写す人が、欄外の書き込みを見て、前の人が写すときにうっかり飛ばしてしまった行を後から気づいて欄外に書いたのだと思い、本文に書き入れてしまう、といったことが起きたのかもしれません。想像ですけれど、十分にあり得る話です。それなら悪意のない書き加えですが、結果は聖書への書き加えです。「国と力と栄えとは、限りなくあなたのものだから」は、古代の、どの写本にもありません。明らかに後代の書き加えです。

このような不正確な小文字写本に基づいて出されたかつての新約聖書校訂本が、いわゆるTRと呼ばれるものです。16世紀のエラスムス版の流れにある Textus Receptus(受け入れられたテキスト、公認本文)の略です。
TRが使われていた時代、入手・閲覧できる写本も限られていましたし、写本の系統や年代もよくわかっていませんでした。

その後、学者らは、写本の系統をふまえ、古代の大文字写本やパピルスも検討し、新約聖書のオリジナルの復元に努めました。
今日の新約聖書校訂本の最高峰は、ドイツ聖書協会のネストレ・アーラント版です。これが世界標準で、今、キリスト教界では、福音派からカトリックまでこれを使っています。現在(2022年)、最新版は28版です。

なお、新共同訳の新約の底本になった聖書協会世界連盟「ギリシア語新約聖書修正第3版」は「ネストレ・アーラント校訂第26版」と本文が全く同じだそうです。じゃあなんで「ネストレ・アーラント」と書かなかったのでしょう。何か事情があるんでしょうね。私にはよくわかりませんが。


素人が考えても、TRとネストレのどちらが優れているのかすぐにわかります。

・TR聖書:中世の不正確な小文字写本に基づいて出された校訂本。古くても12世紀の写本で、校訂者が参照できる写本の数も限られていた。使われた小文字写本には、中世のカトリック教会による書き加えや書き換えも見られる。

・ネストレ・アーラント版:古代の大文字写本もパピルス片も可能な限り参照し、あらゆる可能性を検討し、新約聖書のオリジナルの復元に努めた最高峰の校訂本。


TRを底本にした過去の名訳もあり、TRに不正確な箇所があることは承知の上で、私も参照しています。英訳では欽定訳(KJV AV)、日本語訳では明治元訳、永井直治訳などです。
なお、ルター訳(独)、ティンダル訳(英)なども、私は持っていないし読みこなす能力もありませんが、底本はTRのもとになったエラスムス校訂版です。

明治元訳がTRに基づくのは、明治初めという時代の制約です。欽定訳や漢訳を見ながらの訳だったのでしょうが、欽定訳も当時の漢訳も、もとはTRです。
「新契約聖書」の永井直治先生にしたって、TRがいいと思っていたわけではありません。ステファヌスからネストレに至る新約聖書校訂本の流れ、修正、その変化を一覧にしようしていたのです(※)。まず、ステファヌス第三版を日本語に訳して出版しましたが、日本はアジア太平洋戦争に突入し、永井先生は大戦末期に亡くなりました。もし、そんな時代ではなく、永井先生に時間も資金も十分にあれば、予定どおりネストレまで、どこがどう違うのかを訳し終え、歴史的な新約聖書校訂本の総括的な変化の一覧を作ったことでしょう。その大きな計画が、最初の1冊で終わってしまったのが何とも惜しまれます。

一部に出回っているネストレを不正確に(というか、でたらめに)訳した翻訳より、TRを正確に訳した翻訳の方が、ずっと参考になります。もちろん、底本に不正確な箇所があることを承知の上で使う必要がありますが。


もう一点。
19世紀のウェストコットとホートやその後の校訂本の校訂者らの中に、仮に、問題のある人物がいた場合(問題のある人物がいたかどうか私は知らないので仮定の話ですが、もし、いた場合)、だからその校訂は正しくないという話にはなりません。誰が校訂しても、その校訂が正しければ正しいのです。たとえピタゴラスが極悪人でも、だからピタゴラスの定理は間違いだとはなりません(これも仮定の話で、ピタゴラスが悪人だったわけではありませんが)。

聖書の本文校訂の正しさは、その人が入手・閲覧できた写本の精度や、その人の校訂の能力によるのです! 
その人の人格や信仰や行ないによるのではありません!!

「現行のネストレ・アーラント版の校訂には非クリスチャンも加わっていますから、使うべきではありません」みたいなことを言う人がいますが、本文校訂の正確さと信仰の有無とは何も関係ありません。


さらにもう一点。
田川建三訳『新約聖書』は、ネストレに従っていない箇所がありますが、それは田川先生がご自分で本文校訂(正文批判)をなさったからです。「田川訳はネストレと違う箇所があるからTRからの訳でしょう」みたいなことを言う人がいて、びっくりしました。無知から来る誤解とはいえ、そこまで誤解するのは、ちょっとねえ…。田川建三先生は、はじめからTRなど相手にしてません。


おすすめの日本語訳聖書についても聞かれているんですが、近いうちに答えます。

(伊藤一滴)


※「新契約聖書」の「小引」で、永井直治先生はこう書いています。

引用開始
 併しステハヌスを學び、またそれを仔細に和譯することが、私の研究の主眼ではありません。私の主眼とする處は、等しくステハヌスを基本としまして、ベザやエルゼビル、ミルやグリスバッハ、尚ほその他の多くの學者等を經て、ラハマン、ツレゲレス、チシェンドルフ等の學者に傳はり、遂にヱストコットやワイス等よりネストレに落ち込みました。その流、その修正、またはその變化を一見して明らかなる樣、一册のテッキストに歴史的に總括することでした、本書はその基礎であり、またその一部分であります。
引用終了

永井先生は、ティシェンドルフも、ウェストコットも、ヴァイスも、ネストレも、否定していません。
ティシェンドルフ版、ウェストコットとホート版は、写本の系統や古代の写本類の検討で近代的な本文批判の道を拓きました。またヴァイスはQ資料の研究でも知られるドイツの新約学者で、ブルトマンや、日本の波多野精一もヴァイスに学んでいます。


付記:「ジネント山里記」または「ジネント」で検索すると広告が表示されることがありますが、広告は私とは一切関係ありません。当然、広告に出てくる見解は、私の考えとは一切関係ありません。
(ただし、田川建三訳の新約聖書のように、私もおすすめの本が広告に出てくることもあります。)


参考文献

田川建三著『書物としての新約聖書』
バート・D・アーマン著、津守京子訳『キリスト教成立の謎を解く 改竄された新約聖書』
(B.M.メツガー著、橋本滋男訳『新約聖書の本文研究』 も有名です。事情があって、私は未読ですが。)

(伊藤一滴)

「終末論」に惑わされてはいけない

コロナウイルスの感染拡大や、トンガの噴火、津波などもあって、「聖書の預言が成就した」とか「世の終わりが近い」とか言って不安を煽る人たちがいますが、惑わされてはいけません。
イエス様も知らないその時が、なんでその人たちにはわかるのでしょうか。その人たちはイエス様より上なのでしょうか。

そもそも聖書は書かれた時代の証言であり、千年も2千年も先に起こることを前もって予知した予言の書ではありません。聖書には預言もありますが、ノストラダムスの大予言みたいな予言ではありません。また、世の終わりが近いと言うのなら、いつだって近いのです。今が特別に近いわけではありません。
過去2千年、「聖書に書いてあるとおり間もなく世の終わりが来ます」と言った人が一体どれだけいたんでしょう。

明日世の終わりが来ても受け入れる覚悟を持って日々を生きるなら、堂々としていられるのです。カルトじみた人たちの言説に軽挙妄動することなく、泰然自若としていればいいのです。

すぐに世の終わりが来なくても、いつか自分の寿命が終わります。突然の事故で、今日、明日に、死を迎えるかもしれません。たとえ事故や病気がなくても、80年、90年と生きれば、地上の命は終わってゆきます。
これも同じで、今日か明日に死を迎えても受け入れる覚悟を持って日々を生きるなら、堂々としていられるのです。そういう覚悟で、日々、泰然自若としていればいいのです。

それに、イエスが語った神の国は希望です。破滅ではなく、希望です。
こんな不正な、邪悪な世の中は終わり、神がすべてを総べ治められるというのが神の国の到来であって、それを願って進むのは希望です。
おびえることはありません。

(伊藤一滴)

プロテスタントの限界とカトリックの限界 覚え書き

1.プロテスタントの限界

「信仰の論拠は聖書のみ」は16世紀の時代の状況の中での主張。
当時の水準での聖書研究や正典論が前提。
カトリック教会の腐敗への対抗として、教会より聖書を上に置いた。それは、当時の歴史的な見解。
イエス自身は「信仰の論拠は聖書のみ」と教えていない。聖書のどこにも「信仰の論拠は聖書のみ」とは書かれていない。


(1)聖書よりキリスト教が先

旧約聖書の確立(90年代)より、キリスト教信仰が先。
新約聖書の確立(4世紀の末)より、キリスト教信仰の成立の方がずっと先。

聖書があって、聖書に基づいてキリスト教が成立したのではない。
キリスト教が先にあった。

ユダヤ教(主にファリサイ派)が90年代にヘブライ聖書(キリスト教から見れば旧約聖書)を確立し、キリスト教が4世紀の末に新約聖書を確立した。

この事実に対し、「信仰の論拠は聖書のみ」派は、納得できる説明ができない。
聖句を根拠にすることも、他の証拠をあげることも、理論的に説明することもできない。教会より聖書が上なのは、「聖霊の内的確証」(=聖霊の内的な証し)によって明らかだ、証明の必要はないとしている(カルヴァン)。この主張は、時代の制約によるものだろうが、理論を重んじる現代人には受け入れ難い。
今もプロテスタント諸教派は乱立し、教派間の対立も見られるが、聖霊はそれぞれの教派に別々に働いて別々に啓示を与えるのだろうか。


(2)聖書の権威についての説明ができない

「聖書の権威によって~」と言うが、では、なぜ聖書には権威があるのか、という根本の説明ができていない。
「聖書は66巻」と言うが、本当に聖書は66巻なのか、という根本の説明もできていない。
どちらも理論的な根拠を示さないまま、当然の前提として信ずべきことになっている。
ルターやカルヴァンの著作や、ウエストミンスター信仰告白などに根拠を求めても、それらは人間が書いたものであって神の著作ではない。
カルヴァンは聖書66巻に権威があるという理論的な根拠を示すことができず、聖霊の働きとしたのだろうが、それが本当に聖霊によるものなのか、証明のしようもない。
16世紀にはまだ、聖書の各文書の成立や正典化について明らかになっていなかった。


(3)聖書のみを論拠にしていない

「信仰の論拠は聖書のみ」と言いながら、「聖書のみ」を論拠にしていない。
カトリックの神学からの流用、宗教改革者らの著書、信仰問答や信仰告白、何々宣言等が、一種の「聖伝」となって、信仰の論拠に使われている。また、その教派の創始者や後継者の言葉なども「聖伝」のように受け継がれている。
カトリックの聖伝は否定しながら、自分たちは自分たちなりに一種の「聖伝」を持つという二重基準になっている。


(4)聖書の食い違いの説明ができない

プロテスタント、特に福音派の見解では、聖書の食い違いについてきちんと説明できない。

1.聖書に出てくる出来事や発言が食い違う(微妙に、あるいはかなり)

2.聖書の各文書の著者の考え方が食い違う(主張の違いは、教義にかかわるものもある)

3.聖書の記述が歴史的・科学的な事実と食い違う

4.新約聖書に出てくる旧約からのの引用が、旧約のその箇所と食い違う(微妙に、あるいはかなり)

1980年頃、だったと思う。10代の私は、福音派と名乗る教会の牧師に、4つの福音書の食い違いをどう考えればいいのか聞いた。すると、それまでニコニコしていた牧師は急に怖い顔になって、「聖書に食い違いなどありません! あなたには信仰がないから、聖書に食い違いがあるように感じるのです! もっと聖書を学んで信仰を持てば、食い違いなど一切ないのがわかります」と言った。
私は、そんなふうに言われると思わなかったから、驚き、そして怖くなった。
二度とそこには行かない。
その後私はさらに聖書を学んだが、ますます食い違いを感じた。聖書に食い違いがあると思うのは聖書の学びが足りないからではない。


(5)高等批評と進化論は脅威?

特に「福音派」の中に、高等批評学(歴史的批判的な聖書研究)と進化論を脅威と感じる人たちがいて、全力を挙げて否定する。まるで、信仰の中心は高等批評の否定と進化論の否定であるかのようだ。彼らの一部はカルト化している。
高等批評と進化論が脅威なら、地球が丸いのは脅威ではないのか?
宇宙からの写真にあるように地球は丸い。地球は太陽の周りを回っている。地上から飛び立って空高く昇って行っても天界はない。成層圏があり、大気圏があり、その先に宇宙空間がある。これらの事実は、聖書に反する脅威ではないのか? 弟子たちの目の前で天に昇ったというイエス様はどこに行った? 宇宙空間か? 天界はどこにある?

現代の宇宙論を、信仰を脅かす脅威として否定しないのはなぜ?
聖書の記述をすべて文字通り信じると言うのなら、地球は平らで、空高く昇れば天界に行きつくと考えるのが聖書的ではないか。
高等批評を否定し進化論も否定するなら、宇宙論も否定しなければ一貫性がない。
今も、地球は平面だとする主張がある。この人たちの方がまだ一貫している(もちろんその主張は誤りであるが)。(「地球平面説」検索 ※)


2.カトリックの限界

(1)キリスト教を信じる意義の説明は?

カール・ラーナーの見解や第二バチカン公会議公文書によれば、キリスト教を知らない人でも良心に従って生きるなら神の救いから除外されない、と読める。人の救いはキリスト教信仰の有無ではない、ということになる。
「人の救いはキリスト教信仰の有無ではない」なら、教会はキリスト教を信じる意義を納得できるよう説明できるのか。


(2)イエス・キリストは唯一の救い主?

イエス・キリストは唯一の救い主であるという考えを変えず、キリストの十字架の贖いは非キリスト教徒にも及ぶと考え、非キリスト教徒の救いを説くのは包括主義の一種だろう。
キリスト教の絶対性を譲らないなら、他宗教は誤り、あるいは不完全ということになる。誤り、あるいは不完全な他者を改めさせるのではなく、そうした相手を認めて共存することになってしまう。それは誤りや不完全さを是として認めることになるのではないか。


(3)過去の見解との整合性

かつてカトリック教会は、「教会の外に救いなし」と主張し、「洗礼を受けた信者以外は天国に行けない」と教えていた。カトリック教会はこうした見解を公式には否定していない。過去の見解との整合性はどうなるのか。
非キリスト信者は、天国とは別の場所で「救われる」ことになるのか。カトリック教会は納得できる答えを出していない。


(4)エキュメニズム(教会再一致運動)の課題

聖母マリアの無原罪論やローマ教皇の不可謬性などの教義は、第二正典の存在や聖人への祈り以上にプロテスタント側の理解を得るのが困難であろう。そうした教義をそのままにして、プロテスタント諸教会との対話の推進や将来的な教会再一致に進めるのだろうか?
カトリックの神学者の中には教皇の不可謬性に批判的なハンス・キュンクのような人もいた。再評価が必要ではないか。(キュンク著『ゆるぎなき権威?』参照)
また、宗教改革者らの名誉回復も不十分だと思える。
対話と再一致には課題が多い。


(5)ジェンダーの問題 司祭は男性のみ、しかも独身

カトリック聖職者の性犯罪問題とも関係するのだが、司祭を独身男性のみとする今のやり方は、再検討が必要ではないのか。
十二使徒はみな男性だったから司祭は男性に限る、というのは理由にはならない。十二使徒はみなパレスチナのユダヤ人であったが、司祭をパレスチナのユダヤ人に限ってはいない。初代教皇とされるペトロは既婚者であった。だから、聖書にも出てくる姑(しゅうとめ)がいた。

パウロの書簡には初期の教会で活躍した女性の名が多数出てくる。たとえば、ローマ書16章に出てくるユニア(ユニアス)は女性で、使徒で、使徒たちの中でも活躍していた、と考える人もいる。
キリスト教は4世紀にローマ帝国の公認を得、その後帝国の国教となったが、もし教会がローマ帝国の権力構造を模した組織化によって教勢を拡大させる道を選ばなければ、教会における女性の位置づけはかなり違ったものとなっていたことだろう。

過去には、男性でなければ女性であり、女性でなければ男性であると考えられてきた。しかし、現代においては、トランスジェンダーの存在も明らかになり、男女をはっきり分けられなくなっている。医学も含めて科学が進み、未知の分野が明らかになってゆく中、過去の認識において決められた方針は、再検討が必要ではないのか。


3.新旧両派へ望むこと

ルターやカルヴァンの主張は、彼らが生きた時代の状況の中で語られた言葉である。時代の状況が違えば、彼らはまた違う発言をしたかもしれない。
「信仰の論拠は聖書のみ」とする見解をイエスの言葉と同列に置くべきではないし、普遍の真理と見なすべきでもない。それは、時代の状況の中で語られた言葉なのだ。
また、カトリック教会における公会議の公文書も、その時代の表現である。時代の状況が違えば違う表現となったことだろう。
新旧両派とも、過去に出した見解を、その時代の状況の中で表明されたものだと認識した上で相手と対話するべきだろう。
どこまでも、過去の見解の文字づらに固執し続けるなら、百年経っても千年経っても歩み寄りはなく、教会再一致など永遠にないだろう。

(伊藤一滴)


※以下、日本語版ウィキペディア「地球平面説」の項の「インターネット時代の地球平面説」より引用(2021年12月閲覧)

引用開始
インターネットの普及によって個人が自由に情報発信できるようになると、陰謀論者やキリスト教原理主義者の間で権威的な科学を「世界的な陰謀」として否定する議論の中で地球平面説が語られるようになった。(略)
YouTubeでは2019年1月に地球平面説に関するコンテンツを「ユーザーに誤った情報を与えかねないコンテンツ」として、推奨対象から除外していく方針を明らかにしている。
引用終了