« 2011年8月 | メイン | 2011年10月 »

「潜在的核開発能力」についての補足

東日本大震災から半年以上過ぎました。今、私がこの震災について思っていることを、次回まとめて書きたいと思います。

今年も稲刈りをしました。山形県内の米はすべて放射能不検出ですが、自分の所が不検出だからといって喜んでもいられません。
農家は、農地あっての農家です。漁師だって、漁場や漁港あっての漁師です。知り尽くした場所があり、働く仲間がいて、共同体があって、仕事が成り立っているのです。被災したから、放射能で汚染されたからといって、簡単に違う場所に移るわけにはいかないのです。そう思うと、自分が恵まれているのが申し訳ないような気持ちになります。

前回の「潜在的核開発能力」について補足します。
まず、2011年9月19日の「朝日新聞」から引用します。
「読売新聞は9月7日付の社説で、日本が核兵器の材料になるプルトニウムの利用を認められている状況を指摘し、「こうした現状が、外交的には、潜在的な核抑止力として機能していることも事実だ」とした(下に引用者の注)。
自民党の石破茂政調会長(元防衛相)も雑誌「サピオ」10月5日号で、原発を維持することは「核の潜在的抑止力」になっており、原発をなくすことは「その潜在的抑止力をも放棄することになる」と語った。
主に水面下で語られてきた“潜在的な核武装の可能性”を明示したものと受け取られており、原発推進派内でも意見が割れそうだ。」

京都大学助教の小出裕章氏は、こうした新聞報道がなされる以前から次のようにおっしゃっていました。
「原子力の平和利用だと標榜しながらも核兵器を開発する能力という技術的能力を保有し続けたいという思惑が私は国にはずっとあったと思います」

使用済み核燃料のプルトニウムを発電に再利用するという名目で保持することで、日本には潜在的核開発能力(=潜在的な核武装の可能性、潜在的抑止力)があると思ってもらいたい、というのが歴代政権の本音だったのではないか、と思えてならないのです。

原子力発電というのは、一般にイメージされているほど合理的なものではありません。人間の制御能力の限界を越えているのではないかと思えるほど危険なものを各メーカーの継ぎはぎの技術で運転しています。非常に大きなリスクを見えにくくするさまざまな仕組みもあります。トラブル隠しや、データの改竄、隠蔽の常習化は、そうでもしなければ続けられないものだから、と思えてきます。仮に何もトラブルがなくても必ず放射性廃棄物が発生するし、放射性廃棄物を無害化する方法もありません。原子力発電所の建設から廃炉後の先までトータルで考えれば、安くもないし、地球温暖化防止に有効とも思えません。本気で地球温暖化防止をはかるなら省エネに徹するべきでしょう。さまざまな不利な条件があるにもかかわらず、あえて原子力発電を続けるのは、潜在的核開発能力が第一の目的ではないのか、と、私は疑うのです。

読売新聞社説は、日本のプルトニウム利用が「潜在的な核抑止力として機能していることも事実だ」と言い切っていますが、「事実」と公言するなら、どのような理由をつけようが、日本にプルトニウムが存在すること自体、非核三原則の理念に反するし、憲法が禁ずる「武力」や「戦力」に当たる可能性さえあります。
この問題が大きな議論にならないのが不思議です。

引用者注:2011年9月7日の「読売新聞」社説にこうあります。
「日本は原子力の平和利用を通じて核拡散防止条約(NPT)体制の強化に努め、核兵器の材料になり得るプルトニウムの利用が認められている。こうした現状が、外交的には、潜在的な核抑止力として機能していることも事実だ。」
これだけ読んでもわかりにくいので、少し省略したり補足したりして、読みやすくするとこうなります。

日本は(略)、(原子力発電に使うという理由で)核兵器の材料になり得るプルトニウムの利用が認められている。こうした現状が、外交的には、(いざというときには核兵器の開発能力があると見なされ)潜在的な核抑止力として機能していることも事実だ。
(伊藤一滴)

核兵器の原料保持のための原発?

もともと私は原子力発電に批判的でしたが、心のどこかに、原子力は必要悪みたいなもので、電力の安定供給のための過渡的なエネルギーとしてはやむを得ないのかも知れない、という思いもありました。

しかし、福島第一原発の事故と、その後、次々に明らかになってきた広範囲の放射能汚染や、産・学・官の癒着・隠蔽・やらせ体質の報道に接し、また、高木仁三郎氏の遺言とも言える『原子力神話からの解放』や『原発事故はなぜくりかえすのか』などをじっくり読み直し、考えを改めました。
過渡的にはやむを得ないなどと言っている場合ではなく、原子力発電は全廃すべきです。

「原発を止めたら暮らしが成り立たなくなる」と言う人がいましたが、原発の大半が止まっても、みんな、暮らしています。そもそも、原子力発電など始める前からみんな暮らしていたのです。

世界中の全ての人が今の日本人と同じような暮らしをすると、地球は2.5~3個必要になるそうです。1個の地球から得られる資源やエネルギーや食糧では、世界中が日本のようになった場合の生活をまかなえないのです。今の日本で、ちょっとまわりを見渡しただけでも、無駄が多すぎます。無駄を作り出すことがシステム化されていて、個人の努力など焼け石に水のようです。
どう理屈をつけようが、今の日本の生活には無理があります。経済問題はひとまず置いて生活のあり方だけ考えても、長期的には持続不可能な暮らしをしています。
このような生活のあり方を、持続する暮らしに変えていくことが求められているのです。

原子力への依存は国家と国民生活の破綻を加速させ、破綻後も、放射能の悪影響が後々まで続くことになるのでしょう。
今の私たちの、無駄を作り出すことがシステム化された産業、快適で便利とされる暮らしのツケは、子や孫やその先の子孫への負の遺産となるのでしょう。

原子力発電には多くの弊害があり、弊害を上回る「利点」は、私が思うに、1つしか見当たりません。しかもその唯一の「利点」は、好ましいことではありません。

「原子力発電のメリット」とされてきたことの多くは虚構です(高木仁三郎著『原子力神話からの解放』、他参照)。
中1の長男が小学校6年のときに「原子力発電のメリット」として地球温暖化防止等の効果があると習っていましたが、このような話は国策に沿った虚構の神話に近いです。公立小学校までグルになって国策遂行ですか。戦争中じゃあるまいし。
「原子力発電のメリット」を教えるよう指示を出した担当者(文部科学省?)は、大事故の発生後、何の責任もとらないのでしょうか?
今の状況で、今後とも、学校で「原子力発電のメリット」を教え続けるのでしょうか? 

もしかすると、これまで原子力発電を推進してきた政治家や官僚の中に、国際条約に反しない形でウランやプルトニウムを持ちたがっていた人が相当数いたのではないか、日本はいつでも核武装に踏み切ることができるのだ、と、海外に示すことで安全保障になると思っていたのではないか、という思いが頭をよぎりました。
しかし、いくら何でも深読みし過ぎかと思いましたし、証拠もないので口にせずにきました。

ところが、どうも最近の報道を読んでいると、私のこうした思いも頭から否定できなくなってきたのです。
報道によると、発電に再利用するという名目で使用済み核燃料のプルトニウムを保持することを「潜在的核開発能力」と言うのだそうです。

日本には、すでに46トンのプルトニウムがあり(2009年末)、これは何千発もの核兵器の製造が可能な量だそうです。
原子力発電に、その弊害を上回る「利点」があるとすれば、「潜在的核開発能力」で他国を威嚇することくらいしか思い当たらなくなりました。
もし、原発の本当の目的が「潜在的核開発能力」保持だとしたら、今の状況は、国防のための火薬庫が爆発して自国民が被害にあっているようなものです。原発事故は放射能汚染を伴い、通常の火薬や爆薬の事故より始末が悪いです。そこまでして、「潜在的核開発能力」を保持しないといけないのでしょうか?

一部の企業・一部の住民は、原発利権の甘い汁を吸えるのでしょうが、大多数の国民には益より害のほうが大きいです。それにこの利権の甘い汁をひとたび吸えば麻薬のように抜け出せなくなって、関連企業や自治体や住民を麻薬漬けのような原発漬けにしてしまいます。長期的に考えれば、この利権は、誰にとっても益になりません。

「原子力発電は核の平和利用であり多くのメリットがある」と言いたい方は、『原子力神話からの解放』の指摘に一つ一つきちんと答えてから言ってほしいです。自国民に大きな被害を与え、国土を汚し、なお今後も原子力発電を続けることに、「潜在的核開発能力」以外のどのようなメリットがあると言うのでしょうか。
(伊藤一滴)