« 2007年1月 | メイン | 2007年3月 »

『戦争という仕事』

内山節『戦争という仕事』[信濃毎日新聞社2006]を読みました。
近年読んだ本で、これほど深く共感した本は他にありません。
現代社会の現実を、ずばっと指摘しています。

これは、要約できない本です。
だから、要約して紹介することができません。
要約というのは、大事な点のおおよそを短くまとめることですが、この本はどの箇所も緻密な論考で、省いてもいいような箇所がないのです。
題名から戦争の話を連想するのですが、戦争という仕事(そういう仕事が成り立つこと自体、おぞましいことですが)は、最初の章に出てくる話で、あとは、政治という仕事、経済という仕事、自然に支えられた仕事、消費と仕事、資本主義と仕事、社会主義が描いた仕事、近代思想と仕事、基層的精神と仕事、と、仕事についての話が続き、最後に、破綻をこえてという話になります。

前にもちょっと書きましたが、著者は哲学者で、立教大学大学院の特任教授、「1年の半分近くを群馬県の山村で暮らし、自ら農業を営みながら思索を続ける著者」(朝日新聞2006.11.19の書評)だそうです。
私はこの書評で見るまで内山節氏のお名前も知らず、お書きになったものを読んだこともありませんでいた。しかも我が家は、小さな子どもたちが大騒ぎする毎日ですから、1冊の本を一気に読み通すこともできず、やっと読み終えたのはつい先日です。これまで氏の影響を受けようもなかったのです。だのにまあ、現代社会に対する批判もそうですし、「自然(じねん)」とか、「おのずから」とか、私の好きな表現もいろいろ出てきます。山里に暮らし畑仕事などする人は、発想が似てくるところがあるようです。

私でさえ、現代の正体にある程度は気づいていたつもりですが、この本のおかげでますます見えてきたように思えます。入手も閲覧も容易にできる本ですから、関心のある方はぜひご覧になってみて下さい。

要約できない本ですから、以下は、要約ではありません。この本を読みながら、私が個人的に思ったことです。

現代の諸問題の中には、人の暮らしが自然と向き合う暮らしでなくなったために生じたものが、少なからず存在すると思います。それと、伝統的な暮らしから切れてしまったことによる問題の発生です。
この本に詳しいのですが、生活の変化も問題の発生も、なるべくしてそうなったのです。

完全に理想的な社会、経済、政治の制度など、未来永劫実現しないのかも知れません。
しかし、私は、今では廃れつつある農村・山村の伝統的な共同体や自然と共にある暮らし(あるいは、そうした要素を取り入れた暮らしや、そうした暮らしを志向する暮らし)の中に、みんなが幸せに生きていくためのルールや、みんなが幸せになるための仕事の一面を見るような気がします。
それが完全だとか、すべて理想的だとか、言いませんけれど、ある面、すぐれたルールや人の役に立つ仕事が存在すると思うのです。逆に言えば、近代的な科学文明、産業文明、都市文明、合理主義といったものは、万年単位の歴史を持つ人類のルールをぐちゃぐちゃにした、人の役に立たない仕事を増やしすぎた、とも言えます。

農村・山村の伝統は、長い間のならわしのようなものです。自然の中で生きてきた人たちの相互扶助的な風習であったり、その地域の必要性から生じた仕事であったりするのですが、こうしたものは、ひところ前まで、遅れているとか田舎臭いとか言われ、嘲笑されることもありました。田舎のルールや仕事の根底には、素朴な信仰心や自然讃美、素朴な誠実さもあったと思うのですが、それらもまた嘲笑の対象にされました。

私が幼かった頃(昭和40年代)、当時の高齢者はよく言っていました。
お天道様はありがたい、とか、
雨の恵みはありがたい、とか、
もったいないよ、そんなことをしたらバチが当たるよ、とか。
その後、こうした言葉をあまり聞かなくなったのですが、近年また一部の人から再評価されてきているようです。

私が福祉大学へ進学し愛知県内で一人暮らしをするようになったのは1980年代半ばですが、山形県に生まれ育った私は、どうしても田舎の言葉や雰囲気が出てしまい、それを恥じました。福祉の学校ですから、地方出身者への意図的な差別などありませんでしたが、つい方言が出たりすると「えっ」という顔で見られることがあり、恥ずかしい思いをしました。自分が地方出身なのが劣ったことに思え、私はなめらかな標準語を話すように心がけ、田舎者と思われないよう気をつけたものでした。
それが今ではスローライフだのロハスだのといった言葉が話題にのぼるようになり、何かかっこいいものであるかのように言われます。かっこいいかどうかはともかく、失われつつあるものを見なおそうという動きが出てきています。時代の変化を感じます。

80年代はまだ産業の発展を肯定的に考える人が多かったと思います。その後、時代は変わり、今は産業の発展と言われてもバラ色のイメージはなく、むしろ限界や弊害の指摘が多くなりました。
実際、産業は高度化し、仕事はつまらなくなりました。高度化、細分化され、万事が複雑化した中で自分の仕事の意味も見えにくく、企業も官庁も社会全体も、産業が供給する物品やシステムに組み込まれ、個人の意思の反映も難しいし、苦労して身につけた技術もたちまち古くなってゆきます。これでは、世の中に不満がくすぶって当然です。
しかも、未来が不安です。経済が、社会がどうなるのか、環境がどうなるのか、不安です。こうした現状への批判や反省も出てきているのだろうと思います。

私も妻も、たぶん子どもたちも、山里の暮らしにここちよさを感じていますが、それは、自然も人も、昔の面影が残っているからでしょう。
自然に接し、人に接し、自然と人、人と人とが自然(じねん)と生きる方向を目ざした方が暮らしやすい、というのが私の体験からの実感でしたが、『戦争という仕事』を読み、ますますその思いを深めました。
私自身、まだまだ手さぐりなのですが、自然の恵みの偉大さや伝統的風習の価値が、だんだんわかってきたように思います。
「自然は完全なものとして完成している」というのは、自然農法家の福岡正信さんの言葉ですが、この完全なものである自然こそ、私たちの最高のお手本ではないか、この自然の恵みに感謝しつつ、自然と調和して生きる生き方こそ、真の意味で最も暮しやすい生き方ではないか、と思えます。
高度化した産業は遠からず黄昏(たそがれ)を迎えることでしょう。産業の恩恵よりもこれまでの産業のツケの方が大きい苦難の時代が、50年続くか、100年続くか、もっと続くか、私にもわかりませんが、産業がだんだんに行き詰まってゆく中で、自然に学び、自然と調和して生きようとする人が少なからず現れるだろうと思います。そこに、希望もあります。

今後も私たちは、山里の古民家に身を置いて、じねんと生きる方向を目ざしていこうと思っています。(伊藤)

さとうきび畑の唄

情報化社会になって、自分の頭でじっくり考えることが難しくなってきました。テレビやインターネットは日々どうでもいいような情報や事実のある一面だけを誇張した情報をたれ流しています。情報が多すぎて、個人の思考の範囲を超えました。しかも変化が速く、やっと考えた頃には状況が変わっていたりします。その結果、なんとなくイメージに流されるようになり、自分の頭でじっくり考えることが難しくなってしまったのです。困ったことです。

テレビのドラマも飽和状態で、あの番組は名作だと長く語られることもありません。番組の量自体が増えていること、リモコンですぐに変えられるようになったことなども関係しているのでしょう。
せっかくいいテレビ番組がつくられても、しょうもない番組の膨大な海の中に埋もれそうになります。これも、大量の情報供給が可能になった時代の負の面だと思います。残念なことです。
だんだんテレビが「時間どろぼう」に思えてきて、私はふだんテレビを見なくなりました。

そんな私ですが、正月(1月2日だったと思います)にTBSのドラマ「さとうきび畑の唄」の再放送があったので、妻と見ました。1ヵ月も前の放送の話が今頃になってしまいましたが、テレビをじっくり見たのは数年ぶりで、印象に残っています。

「さとうきび畑の唄」はなかなかの力作でした。
民放ですから、CMが入るのは仕方ありません。番組の内容の重さと能天気なCMの落差は極端でしたが、まあ、仕方ないです。民放ですから。
沖縄で本格的にサトウキビの生産が始まったのは戦後になってからなので、あの風景は不自然だとか、登場人物の髪型や言動が時代に合わないとか、いろいろ批判もあるかもしれませんが、それでも力作だと思いました。

一般庶民が戦争に巻き込まれ、ささやかな幸せさえ踏みにじられていくこと。そうした中、筋の通った意見が、暴力的に押さえ込まれてしまうこと、逃れようのない状況で死を強要されてしまうことなど、うまく表現されていたと思います。
明石家さんま氏が熱演していた写真館の主人の発言は、まっとうな言い分でしたし、息子の嫁の発言、京大の学生らしい学徒兵の発言も、実に筋が通っていましたが、暴力的に封じられていきました。
インテリたちは世界を知っていたし、庶民の中にも庶民の感覚でこの戦争はおかしいと気づいていた人がいました。でも、どうすることもできません。
戦車に向かって生身の人間が突撃して勝ち目がないことぐらい、誰でもわかることなのに、それでも突撃が命じられるあたり、太平洋戦争下の日本の状況がよく表現されていたと思います。もう日本側には戦略も戦法もなくて、ただ滅茶苦茶あるのみ、軍事的には無駄でしかない突撃あるのみ。命じる側には、部下に行かせて自分は行こうとしない人もいます。

「くやしいね」
見終えて妻が言いました。
そう、悲しいというより、くやしい。私もそういう気持でした。
まっとうな意見は圧殺され、米軍への投降も許されない。意義を見いだすことが出来ない死が強要される。一人ひとりに命があり、家族があるのに、丸太のように転がる、犬死のような、累々たる屍。
悲しいというより、くやしい。

でもそれを全くの無駄死にだ、犬死にだと、言い切ってしまうには抵抗があります。
もし、戦争犠牲者の死に意味を求めるなら、多くの死によって、その後の日本の平和主義を方向づけることになった、尊い犠牲というべきでしょう。
ということは、日本がもし平和路線を方向転換する事態になれば、それは戦争による死者をもう一度殺すに等しいと言えます。

「沖縄は日本にとって特別な場所ね」と妻は言います。広島や長崎を忘れてはいけないのと同じくらい、沖縄を忘れてはいけないと、私も思います。(伊藤)

補注:ある種のイデオロギーを持つ人たちの中に、自分たちのイデオロギーを正当化するために日本の戦争責任をことさら強調し、利用する人がいたし、たぶん、今もいるでしょう。フェアではありません。そのせいで、戦争について批判的なことを言うと、何か特定の思想の影響下にあるように思われることがあり、迷惑な話です。言うまでもないことですが、戦争責任は客観的事実であり、特定のイデオロギーとは関係ありません。
読売新聞は右派とされていますが、2005~06年に掲載された「検証 戦争責任」は、かなり公正でていねいな検証だったと思います(中央公論新社から、全2巻で出版あり)。右派とされる読売新聞でさえ認めないわけにはいかない戦争責任が、客観的に存在しています。
「文芸春秋」も右派とされていますが、その「文芸春秋」の編集長だった半藤一利氏の『昭和史』[平凡社]も、日本がどのように戦争に進んでいったのか、ていねいに論じています。

「僕をスキーに連れてって」

長男は何度もスキー行事があったのに、保育園児の次男はないので、行きたくてしかたがない様子でした。
「兄ちゃん、スキーに行けていいなあ。僕も行きたいなあ。パパぁ、僕をスキーに連れてって」
「パパがお休みで、時間のとれるときに連れてくよ」と言うと、カレンダーを持って来て鉛筆で何か書き始めました。見ると、日曜全部に「すきい」と書いています。だんだん字が太くなってきて、しまいには「すきいーーーーー」になってました。
よほどスキーに行きたいのだろうと思い、
「じゃあ、今度の休みの日に、パパと2人で行こうね」と、約束しました。
そしたら・・・・・、
約束の日は朝から冷たい雨。
「どうしよう?」と、妻と顔を見合わせました。
「そうねえ」空を見ながら妻が言います、「カルタでもしてあげたらどう」

次男を呼びました。
「今日は雨だから、スキーはまた今度にしようか」
次男は無言です。
私も、次男とスキーに行くつもりで予定していましたから、迷いました。
「雪ならともかく、雨だからね。スキー場も雨なら、行っても濡れるだろうし・・・・・」
次男はやはり無言。

朝食後にお茶を飲みながら、私はまだ迷っていました。
空を見ると、さっきより少し明るくなり、雨も小降りになったような気がしたので、また次男を呼びました。
「雨だけど、どうする? 行く?」
「うん!!」
そう言った次の瞬間、次男は走って自分のスキーウエアを取りに行きました。私がお茶を飲んで立とうとしたときに、もう次男はウエアに着替え、スキー板とスキー靴をかかえて玄関の方に歩いていました。
「ちょっと待ってよ。トイレにくらい行かせてくれよー」
私はさっとトイレを済ませ、急いで自分の用具を持って次男を追いかけました。

あとは、用具一式ジープに積んで、スキー場に向かって出発です。
さっきまで無言だった次男は、もうニコニコ顔で、よくしゃべります。
スキー場に着いてからも、待ったなしです。私が自分のスキー靴をはくのに手間どっているうちに、もう履き替えてゲレンデの方に行こうとします。
「ちょっと待ってよー」

悪天候にもかかわらず、けっこう、スキー客がいました。
どうしても、冬の雪国は閉ざされがちですが、スキーは雪国ならではの冬の楽しみです。
次男も去年スキーを始めたばかり。しかも今シーズンは初めてで、最初ちょっと戸惑っていましたが、すぐに感覚を思い出したようで、あとはスイスイです。
自転車と同じで、一度できるようになると、あとは忘れないそうです。
今、次男は私とほぼ同レベル。雨に濡れるのも気にせず、夢中になって滑っていました。あと何年かのうちに、私は息子たちから追い抜かれることでしょう。小学校高学年の子の親たちは、子どものスキーが速くて、ついて行けなくなると言っています。まあ、それでいいのでしょうけれど。(伊藤)