« 2006年4月 | メイン | 2006年6月 »

伝統民家のこと

最近、多くの人たちの努力もあって、日本の伝統的な民家が再評価されているようです。それは嬉しいことですが、どちらかというと、評価してくれるのは都会の人たちで、田舎の民家が失われていく流れは止まりません。

私たちが山里に引っ越して1年と少しですが、その間にさえ、付近の集落で立派な茅葺民家がいくつか消えました。事前に聞いていれば、再生や移築などの方法もあるとお話しすることもできたかもしれないのですが、同じ自治体の中といってもよその集落ですから、私は、とり壊しの予定のことを何も知らぬまま、ある日、突然消えていました。
私の住む地区からさらに山間部に登った高台の上に、江戸時代に建てられたというみごとな茅葺の曲り家がありました。ありましたと、過去形で書かないといけないのが残念です。昨年、これが突然消え、現代的な新築住宅にかわっていました。住んでいる人には今現在の生活があるわけで、建て替えを責めることもできませんが、あの家は山の風景とみごとに調和していて、通るたび心が和むような光景でしたから、なくなってみると寂しいです。
古民家を壊す人も、求める人もいて、そのへんがうまく合致してくれるといいんですけれど・・・・・。

今も残る伝統民家のほとんどは、長く放置されて荒れているか、今も(あるいは最近まで)人が住んでいて現代風にアレンジされているか、どちらかです。
文化財などの特別な場合は別として、ふつう、オリジナルに近い良好な伝統民家はほとんど残っていません。古い時代のタイムカプセルのような民家が残っていても、長く空家で傷みもひどく荒れ放題というのがほとんどです。今も使われている(あるいは最近まで使われていた)民家であれば、柱や梁に鮮やかなニスやペンキが塗られていたり、内部のしっくい壁の上にビニールクロスが貼られたり、板壁の上にプリント合板が張られていたり、縁側も合板床やビニール張りの床に替えられていたりしています。外壁の上に角波トタン板を張った民家もよく見かけますが、それはまだいいほうで、リシン吹き付けや合成樹脂の吹き付け、サイディング張りも見られます。
住んでいる人にしてみれば、自分たちのふだんの生活のための補修ですし、、一般の工務店や大工さんだって、民俗文化を守るために仕事をしているわけではありませんから、家の補修を頼まれればそうした「改装」になるのでしょう。古びていること、すすけていることが良くない、新しい物が良いという価値観もあるようです。

失われてゆくのは民家だけではなく、民家と共にあった相互扶助的な生活様式そのものが失われてきていますから、そうした中で、建物だけ残してどうなるのか、という意見もあります。日本の良き伝統も残していければよいのですが、私は、せめて建物だけでも残してほしいと思うのです。失われゆくものへの憧れと言われそうですけれど、それだけでなく、実際に伝統民家は機能的で、しかも落ち着きがあり、居心地もいいのです。安らげる場なんです。天然素材そのものですし、昔の職人がていねいに造っています。壊してしまうのは、もったいないのです。

民家を民家らしく再生するとなると、放置されて荒れ果てた家を補修するか、それまでの「改装」に使われた新建材をはずしてもとの素材の美しさを取り戻すか、少なくとも、そのどちらかを(場合によっては両方とも)することになります。

今、私たちが住んでいる山里の自宅も古民家です。仲介してくれた業者によると、買い手がつかない状態で、もし私たちが買わなければ、たぶん大雪でつぶれる運命だったでしょう。民家を1件、なんとか救いました。何件も購入したり維持したりする余裕はありませんから、私と妻とで1件守るのがせいいっぱいでした。自分たちで手入れをしていますが、傷みの補修と新建材撤去の両方をしており、やることが多いです。それもお金をかけずに主にセルフビルドでやっていますから、気の長い作業です。
伝統民家それ自体、気の長いものですから、私も気長にやっていこうと思います。
そのうち子どもたちも成長していくでしょう。じねんと、じねんと。(伊藤)

感謝の山里

前回、「風邪の効用」の話を書きましたが、田舎に暮していると風邪の治りも早いようです。自然に恵まれていて空気が良いことや、都会のような混雑がないことも関係しているのかも知れません。

山里は、桜が満開を過ぎて、かわいい花びらがはらはらと散っています。
北国の春はいっぺんにやって来ます。梅が咲き、スイセンが咲き、桜が咲き、リンゴの花も咲き始め、草木の新緑は萌え、まわりは色とりどり、死んだようになっていた冬の風景は、いっぺんに生気を取り戻します。春夏秋冬いつでも空気がいいのですが、特に5月は風が爽やかで気持がいいです。
家のまわりに自生するコゴミ(クサソテツ)という山菜やタラノメも食べ頃になりました。コゴミはクセが少なく万人向きのおいしい山菜なので、おひたしや味噌汁、あえものなどにします。タラノメはひとクセありますが、天ぷらや、ゆでてクルミあえにして食べるとおいしいです。クルミも去年の秋に家のまわりで拾いました。たくさん自生しているアサツキは、さっとゆでて食べてもおいしいですし、万能ネギのかわりにもなります。ユリの仲間の甘草もたくさん生えていますが、若い葉はゆでたり炒めたりして、おいしく食べられます。こうした野草や山菜は、どれも採れたて新鮮なものを食べることができますから、山里は自然の食の恵みも豊かです。

連休中、集落のお祭りや、全戸参加の道普請がありました。
そうした行事に参加し、山里の暮らしは「人との関わり」と「自然との関わり」が軸になっていると、あらためて思いました。人と人とがつながる田舎暮らしをいいと思うか、わずらわしいと思うか、自然と向かい合って暮らすのがいいと思うか、自然を遮断して暮らすのがいいと思うか。どっちもいいことばかりではないし、人それぞれ感じ方も違うでしょう。でも、トータルで考えれば、田舎は子育てしやすいし、省資源で暮せるし、お金もあまりかからないし、私たちは住みやすいと感じています。
もし調味料を切らしたら近所から借りてくればいいわけですし、急に小銭が必要になれば近所でくずしてもらえばいいわけで、山里暮らしにコンビニはいりません。冬以外は、ちょっと外に出れば味噌汁の具になりそうな野菜や野草・山菜が手に入ります。コンビニを必要とする街は、それだけ近所づき合いが切れている、自然から切れている、と言えます。

街の暮らしの中心は、たぶん「消費」でしょう。地方都市に住んでいた頃、休みの日になると子どもたちは必ず「今日はどこへ行くの?」と聞きました。休日ごとに「どこへ行くの? どっか連れてってよー」の大合唱で、親だって少し休みたいのに休むことも出来ず、子どもたちを車に乗せて出かけていました。必要もないことにガソリンを使い、出かけた先でお金を使います。消費です。毎週ですから、だんだん出かける場所も限られてきて、いわゆるショッピングセンターに連れて行ったりしていましたが、それこそ消費です。余暇も消費、育児も消費、自分を満たすのも消費、なにもかもすべてが消費を中心に回っているような感じでした。
消費中心の生活のためにはお金が必要で、とにかく稼がないといけない、ということになり、より多く稼ぐ人が「勝ち組」ということになります。「世の中は厳しい競争社会なんだから、勝ち抜かないといけない」というわけです。そういう風潮にも、ほとほと疲れました。人は多いけれどお互いの関わりはうすく、大勢いるのに孤独感が漂う街の状況、用があっての電話や訪問より変な勧誘電話やセールスの訪問の方が多い状況にも疲れました。みんな、好きでそうしているわけではないでしょうが、街には特有の雰囲気があります。私も妻も、「便利」とされる街の雰囲気になじめす、小さな子どもたちをかかえて疲れていました。

たまたま縁あって手に入れた山里の古民家に、一家で逃げ込んだみたいになりましたが、集落の人たちは温かく受け入れてくれました。ここにいると、まるで別な世界に来たみたいです。もう、子どもたちは、休みの日も「どっか連れてって」とは言いません。自然に囲まれた中で、いつもアウトドアみたいで、家のまわりで遊ぶのがとても楽しいのです。おかげで、余計なお出かけや消費は不要になりました。
私も変わりました。心の中のイライラや疲れがだんだん小さくなり、感謝の念が大きくなってきました。
自然の恵みに感謝、地域の人たちに感謝、集落をつくり普請しながら守ってきた先人たちに感謝です。よそから来た私たちも集落の一員に加えてもらい、みんな一緒に汗を流すのはうれしいです。こういう場所におりますと、自然の偉大さや、自然とともに生きてきた人々の暮らしの重みを感じずにはおられません。(伊藤)